イタリアとの平和条約
![]() | この記事はイタリア語版の対応するページを翻訳することにより充実させることができます。(2022年2月) 翻訳前に重要な指示を読むには右にある[表示]をクリックしてください。
|
![]() 平和条約締結後のフランスとイタリアの国境 | |
署名 | 1947年2月10日 |
---|---|
署名場所 | ![]() |
発効 | 1947年9月15日 |
署名国 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
寄託者 | フランス政府 |
言語 | フランス語(第一言語) 英語 イタリア語 |
イタリアとの平和条約(イタリアとのへいわじょうやく、英: Treaty of Peace with Italy)は、1947年2月10日にイタリアと連合国との間で締結された第二次世界大戦の講和条約の一つで、1947年のパリ条約に含まれる。同年9月15日に発効した[1]。
領土変更

- アドリア海の島(ツレス島、ロシニ島、ラストヴォ島、パラグルジャ)、イストリア半島のミルナ川から南の部分、ダルマチアのザダル、リエカとプリモルスカ地方のほとんどがユーゴスラビアに割譲された。
- ドデカネス諸島がギリシャに割譲された。
- ラ・ブリギュ、タンド、フランスとイタリアの国境沿いの小さな町がフランスに割譲された。
- アルバニアの独立が承認され、サザン島がアルバニアに割譲された。
- エチオピアに対する請求が放棄され、エチオピア帝国が再興された。
- リビア、エリトリア、ソマリランドを含む、植民地に対する請求が放棄され、イタリア植民地帝国が解散された。
- 中華民国とのイタリア有利な通商条約が破棄された(加えて1901年9月7日に天津に設置されたイタリア租界も中華民国に返還された)。
- トリエステと周辺地域がトリエステ自由地域と呼ばれる新たな独立地に組み込まれた。1954年、主要地域と自由地域の管理は、アメリカ合衆国連邦政府とイギリス政府からイタリア政府に委託され、ユーゴスラビア軍の委任地がトリエステ自由地域に関するロンドン了解覚書でユーゴスラビア政府に委譲された[2]。
- 1950年12月2日の国際連合総会決議390 (V)による勧告で、1952年9月11日にエリトリアはエチオピアと連合したが、1991年5月24日に事実上の独立を果たし、1993年5月24日に法的に承認された。
イタリア領ソマリランドは1949年にイタリアの信託統治領になるまでイギリスが統治し、1960年にイギリス領ソマリランドと合併されソマリアになった。
戦争賠償
第74条より、イタリアには以下の通りに戦争賠償を課せられた。
- ユーゴスラビア:1億2500万ドル
- ギリシャ:1億500万ドル
- ソビエト連邦:1億ドル
- エチオピア:2500万ドル
- アルバニア:500万ドル
賠償の金額については、金本位制によるUSドルで計算され(1946年7月1日時点。金1オンス=35ドル)、7年で商品とサービスで支払われることになった。
軍事条項
第47条と第48条より、フランスとイタリアの国境とユーゴスラビアとイタリアの国境沿いにあったすべての要塞の取り壊しを義務付けられ、第51条より、30キロメートル以上の射程を持つ核兵器、ミサイル、火器や人間魚雷を含む非接触式の機雷と魚雷の所有、建造、実験を禁じられた。
軍事力の規模が制限された。第54条より重戦車、中戦車200両までとされ、第55条より黒シャツ隊とイタリア社会共和国陸軍の元士官と元下士官は、イタリア軍の士官と下士官になることを禁じられた(イタリアの裁判所で無罪が証明された者は除く)。
イタリア海軍もまた削減された。第56条と第57条より、戦艦の一部がソビエト連邦、アメリカ合衆国、イギリス、フランスに割譲された。すべての潜水艦が沈没させられ(第58条)、新たに戦艦、潜水艦、空母を入手することが禁じられた(第59条)。海軍の人員が25,000人に制限され(第60条)、陸軍では185,000人にカラビニエリ65,000人を合わせて25万人に制限された(第61条)。空軍は、戦闘機と偵察機200機と輸送機、訓練機、航空救難機、連絡機150機に限定され、爆撃機の所有と運用が禁じられ(第64条)、人員は25,000人に制限された(第65条)。
軍事力の制限のほとんどは、1949年にイタリアがNATOの原加盟国になったことで緩和された。
政治条項
第17条より、イタリアにおいてファシズムの組織化が禁じられた(政治、軍事、半軍事のいずれも)。
付属書
付属書より、南チロルにおいてドイツ系住民の文化的な自治権が認められた。
脚注
- ^ Grant, John P.; J. Craig Barker, eds (2006). International Criminal Law Deskbook. Routledge: Cavendish Publishing. p. 130. ISBN 9781859419793
- ^ United Nations Treaty Series 1956; No. 3297
関連項目
外部リンク
イタリア平和条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 19:52 UTC 版)
「パリ条約 (1947年)」の記事における「イタリア平和条約」の解説
詳細は「イタリアとの平和条約」を参照 条約の前文ではイタリア王国軍とレジスタンスが共同参戦国として対ドイツ戦に有力な働きをしたと言及されているが、イタリアの扱いはあくまで「旧敵国」であった。 イタリアの領土の内、ブリガ(英語版)とテンダ(フランス名・タンド)といったアルプスの国境地域の一部がフランス領となった。また、戦前に獲得していたヴェネツィア・ジュリアの大部分、ダルマチア地方のプーラとゾラ、フィウーメ(現リエカ)、アドリア海の島嶼はユーゴスラビアへ割譲された。またトリエステはトリエステ自由地域となった。ロドス島をはじめとするドデカネス諸島(イタリア領エーゲ海諸島)はギリシャ領となった。さらに、サセーノ島(英語版)に関する請求権を放棄し、アルバニア領と認めた。 また海外植民地および中国における租界の権利をすべて失うこととされた。ただし、最終的な帰属画定は行われず、中でもイタリア領ソマリランドはイギリスの占領下に置かれたものの1950年12月にイタリアの信託統治地域となり、1960年のソマリア独立まで続いた。 またソビエト連邦に1億ドル、ユーゴスラビアに1億2500万ドル、ギリシャに1億500万ドル、エチオピアに2500万ドル、アルバニアへ500万ドルの賠償を行うこととなった。西側連合国は賠償請求を行わなかったものの、被害を受けた連合国国民の資産に対してはリラ建てで弁償することが定められた。しかし連合国経済復興機関や民間援助により、賠償支払いの負担は大きく緩和された。 条約締結の翌日、イタリアのアルチーデ・デ・ガスペリ首相は、「国土にひしめく4500万人の国民を養うことができない国家の生命」に毒を盛った、これはムッソリーニと同じ動機であるとして条約を激しく非難している。
※この「イタリア平和条約」の解説は、「パリ条約 (1947年)」の解説の一部です。
「イタリア平和条約」を含む「パリ条約 (1947年)」の記事については、「パリ条約 (1947年)」の概要を参照ください。
- イタリア平和条約のページへのリンク