領土の相続
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 04:22 UTC 版)
1209年、前記のハインリヒ2世(Heinrich II. der Reiche)の3人の息子たちが、家領をヴァイダ(長兄)、ゲーラ(次兄)、グライツ(弟)にそれぞれ分割した。3人の息子たちはそれぞれの本拠に居所を置いたが、3人とも引き続いてヴァイダ城代(Vögte von Weida)の称号を用いた。1237年までに、3兄弟による家領の分割は公に認められた。 このうち、グライツ系統は1代で絶えたため、領土は次兄のゲーラ系統に相続された。ゲーラ系統は第2世代でプラウエン城代家(Plauen)とゲーラ城代家(Vögte von Gera)に分かれた。1303年にプラウエン城代ハインリヒ1世(Heinrich I. (Plauen))が死ぬと、その領地は1306年に2人の孫の間で、プラウエン城代領とそれ以外の所領とに分けられることになった。ハインリヒ1世の長男ハインリヒ2世(Heinrich II. (Plauen))の息子ハインリヒ3世(Heinrich III. (Plauen))がプラウエン城代領を、次男のハインリヒ・ルテヌス(Heinrich Ruthenus、Ruszen、Reußenとも表記される)の息子ハインリヒ2世ロイス(Heinrich II. (Reuß-Greiz))が城代領を除く家領を分割相続した。前者のプラウエン城代系統は後にマイセン城伯(Burggraf von Meißen)の地位を獲得し、後者の系統はグライツの領主として「ロイス・フォン・プラウエン・ツー・グライツ」(Reußen von Plauen zu Greiz)の家名を名乗り(後述)、ここにロイス家が成立した。 ヴァイダ城代系統は1531年に断絶し、その領土はザクセン選帝侯領(エルネスティン家領)に吸収された。またゲーラ城代系統も1550年に断絶し、その遺領はプラウエン城代系統のマイセン城伯ハインリヒ4世(Heinrich IV. von Plauen (Burggraf von Meißen))が相続した。ロイス家はグライツと現在のザクセン地方に属する城代領の一部を所有していた。ロイス家は1560年9月28日、皇帝の裁可により、シュマルカルデン戦争中に失われたグライツの領地を取り戻した。また、ロイス家はゲーラ、シュライツ、ローベンシュタインをも獲得した。1572年に本家筋のマイセン城伯の系統が絶えると、ロイス家がそのマイセン城伯家の遺領を受け継いだが、1590年まではマイセン城伯家に資金を貸し付けていた抵当権者たちと所有権をめぐって争わねばならなかった。
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