間接統治とヤルリイク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 14:45 UTC 版)
「タタールのくびき」の記事における「間接統治とヤルリイク」の解説
ルーシ諸国のモンゴルへの臣従関係を示す用語が「タタールのくびき」である。この表現は、ルーシがモンゴル人の苛酷な支配下にあったこと、そして、この時代がロシア人にとっては「不幸」な時代であったことを含意することは明白である。それに対し、実際には、征服事業の初期において、モンゴルに服従しない国家や都市に対しておこなった殺戮行為や略奪行為を除けば、この用語から受ける一般的な印象ほどには苛酷な統治ではなかった、あるいは、抑圧的な体制ではなかったという指摘もある。 たとえば、モンゴル史研究の杉山正明は、ロシア人史家の語る「タタールのくびき」はあまりにも「愛国主義」の影響を強く受けていることを批判している。そして、近年の栗生沢猛夫の一連の業績を評価して、13世紀当時のルーシ年代記は元々きわめて数が少なく、なおかつ、モンゴル人による破壊・虐殺に関する叙述もほとんどないこと、また、年代記の記述はむしろ、時代がくだるにしたがってルーシの被害がどんどん増えていくことを指摘して、後世のロシア年代記を無批判に受け入れる研究手法そのものを批判している。 実際のところ、ジョチ・ウルスのハンは基本的にルーシ諸公を廃さず、彼らを通じて統治した。そして、モンゴル支配の時期、ルーシ西部とヨーロッパとの交易は、ルーシと中央アジアなどとの交易と同様、一定の割合で伸長を続けていた。ルーシがモンゴルの支配に服したことによって、ヨーロッパとアジアにまたがる強大な帝国の存在が保証する東西交易の恩恵は、ルーシの地にもおよんだ。 また、数のうえで少数派であったモンゴル人たちの征服地への定住はまばらなものであった。モンゴル人たちはステップ地帯については直接統治をおこなったが、定住農耕民の住む征服地については直接支配を好まず、多くの場合、先住農耕民の首長を通しての間接統治を採用した。このことは、その生活様式から影響を受けることによってモンゴル人が農耕民族化し、軍事的に弱体化してしまうことを怖れたチンギス・カンの遺訓を、子孫たちが墨守した現れとみることも可能であるが、それにもまして、モンゴル人たちが、ロシア国内の交易ルートやロシアからの貢税収入よりも、ヴォルガ川からクリミア半島を経由して黒海へ至る隊商ルートとホラズム、ヴォルガ・ブルガリア、クリミア、カフカース(コーカサス)地方などからの経済的な収入の方をいっそう重視したためでもあった。実際、隊商ルート沿線の諸地域に対しては、モンゴル人は直接統治を選択しており、このことについて歴史学者の加藤一郎(中世ロシア史)は、ジョチ・ウルスにとってのロシアの位置は、元帝国(大元ウルス)にとっての高麗の位置に相似すると指摘している。 元の世祖クビライは、属国となった高麗王に対し、人口調査にもとづく貢税の納入や兵力の提供、ジャムチ(駅伝)の設置を義務づけ、監督官としてダルガチを置くことを命じているが、ジョチ・ウルスもまた内属したルーシ諸国に対し、基本的にはクビライの対高麗方針と同様の姿勢で臨んでいる。このことは逆言すれば、ルーシの人びとからすれば、十分な貢納と軍役さえ果たせば、被支配民族ではあっても日々の生活をそれほど干渉されることはなく、従来通り、比較的自由に農耕や商業などの生業が続けられるということを意味した。ジョチ・ウルスのハンは、ルーシ諸公が忠誠を誓い、納税と軍役の義務を負うと約束する限りは、ハンの特別証書である「ジャルリグ(叙任令書)」(ロシア語に基づきヤルリイク、ヤルルィクとも)をあたえて彼らの統治権や既得権益そのまま認めた。ただし、地位と身分が保障される代償として、ハンの派遣したバスカク(徴税吏と目付を兼ねた代官)やチスレンニク(人口調査官)の任務には協力しなければならなかった。 ルーシでは、チンギス・カンが中央アジアでおこなったような、懲戒として灌漑施設を破壊し、半永久的に農耕不可能とするような事態は生じなかった。ルーシと中央アジアとの交易路は整備され、モンゴル帝国による交易保護政策によって東西貿易が活発化し、ルーシはここから利益も得ていた。北東ルーシの諸公は南西ルーシの諸公に比すると、いわば「本領安堵」を求めて自発的に征服者に対し恭順の意をあらわした。このことについて、北東ルーシは、徹底的な打撃を受けた南西ルーシとは異なり、ポーランドやハンガリーなど後方で退避できるような場所をもたなかったのに加え、風土的にも南西ルーシにくらべ専制支配を受け入れやすい環境にあったという指摘がある。 ジョチ・ウルスは、ルーシに対しては間接統治で臨み、決まった税金をサライに納めることや戦時に従軍することを義務づけたのみであったが、諸公の任免の最終決定権はハンの手に握られていたため、主として領土の相続をめぐって相互に敵対する諸公たちは、貢納のため頻繁にサライに赴き、敵対者との紛争で不利な裁定をされたりしないように宮廷やハン周囲の実力者への付け届けをしなくてはならなかった。納税や従軍の義務を怠れば、その懲罰として大軍の侵攻を受け、たちまち権力を失う立場にあったことは明らかであり、ルーシ諸公がハン国を訪れた事例は、ハン国の成立直後から知られている。政治的忠誠と軍事的奉公を条件として「本領安堵」するというヤルリイク授与制度は、モンゴルの支配層にとって、対ルーシ統制の要であり、諸公のサライ詣(もうで)とヤルリイク制度は、ルーシがハン国に服属していたことのまぎれもない証拠であった。ただし、モンゴル人支配者は全体としてはルーシ社会における公位継承の旧慣を可能な限り重んじ、特殊な事情のない限りはそれに違背することはなかった。
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