領土の開拓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/02 17:19 UTC 版)
「ウィスコンシン州の歴史」の記事における「領土の開拓」の解説
1818年からミシガン準州の一部となったウィスコンシンのアメリカ人による開拓は、2つのインディアン戦争、すなわち1827年の小規模なウィニバゴ戦争と1832年のブラック・ホーク戦争で遅らされることになった。ブラック・ホーク戦争では、イリノイからアイオワに移住させられたソーク族およびフォックス族のインディアンが、イリノイの故郷に再度居住しようとして、イリノイの民兵に追われてウィスコンシンに入ってきた。インディアン達は現在のウィスコンシン州ビクトリー近くで、ウィスコンシン・ハイツの戦いとバッドアクスの戦いで敗れた。 これらインディアンとの紛争が解決されて、ウィスコンシンの開拓の道が開けた。この地域の最初の開拓者達はウィスコンシン南部における鉛鉱山の開発可能性で惹き付けられた。この地域の鉱山は伝統的に先住民族が採鉱していた。しかし、一連の条約でインディアンを追い出した後は、鉛鉱山地域は白人採鉱者に開かれた。「灰色の金」を掘るために国中から何千という人々が殺到した。イングランドのコーンウォールから来た職人鉱山師も移民の波の中で大きな比率となった。ミネラルポイント、プラットビル、シュルスバーグ、ベルモントおよびニューディギングスのような新興の町が鉱山の周りにできた。1834年にウィスコンシンでは初めての公有地事務所が2つ開設され、1つは昔からのグリーンベイの拠点に、もう一つはミネラルポイントの鉱山の中心にあった。1836年までにウィスコンシンの人口の半分が鉛鉱山地域に住みベルモント近くのレスリーに準州の州都を設立する要因になった(州都がベルモントと誤解されることがある)。1840年代までに、ウィスコンシンの南西部鉱山は国内鉛産出量の半分以上を産出した。 鉛鉱山地域が最初の開拓者の波を惹き付けたが、その人口はミルウォーキーの成長と共に間もなく陰りが見えた。ミルウォーキーは、シボイガン、マニトワックおよびキウォーニーと共に、1790年代にフランス人交易業者ジャック・ヴィオーが造った一連の交易拠点にその期限を辿ることができる。ミルウォーキー川河口に造られたヴィオーの拠点は、1818年にソロモン・ローラン・ジュノーによって買い取られ、ジュノーがその運営を引き継いだ。 毛皮交易が下火になると、ジュノーはその交易拠点近くの土地開発に焦点を当てた。1830年代、グリーンベイの弁護士モーガン・マーティンと共同経営を始め、ミシガン湖とミルウォーキー川の間の土地160エーカー (0.6 km2) を購入した。ここで二人はジュノータウンの開拓地を造った。一方オハイオ州の実業家バイロン・キルボーンがミルウォーキー川西岸の土地への投機を始め、キルボーンタウンの開拓地を造った。これら2つの開拓地の南に、ジョージ・H・ウォーカーがウォーカーズポイントの町を造った。これら3つの開拓地が、最も多くの住人を集め3つの中で最大になろうと、互いに鎬を削りあった。しかし、1840年代までに3つの町の協業がその存続のために必要であることが分かってきた。1846年、ジュノータウン、キルボーンタウンおよびウォーカーズポイントの開拓地は合併してミルウォーキー市となった。新市は人口約1万人となり、準州内でも最大の都市となった。ミルウォーキーは現在でもウィスコンシン州で最大の都市である。
※この「領土の開拓」の解説は、「ウィスコンシン州の歴史」の解説の一部です。
「領土の開拓」を含む「ウィスコンシン州の歴史」の記事については、「ウィスコンシン州の歴史」の概要を参照ください。
- 領土の開拓のページへのリンク