マリエッタとオハイオ領土
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/07 14:59 UTC 版)
「ウィリアム・ステイシー」の記事における「マリエッタとオハイオ領土」の解説
1788年初期、ウィリアム・ステイシーは54歳ほどになったときに、他の独立戦争士官達と共に、オハイオ領土のパイオニアに加わり、オハイオ川とマスキンガム川の合流点に、北西部領土では最初のアメリカ人による恒久的開拓地としてマリエッタの設立に関わった。ステイシーはオハイオ・カンパニー・オブ・アソシエイツの株主としてこの事業に加わった。この組織は、ルーファス・パットナム将軍とベンジャミン・タッパー将軍が結成し、指導していた。その後、ラファイエット将軍がマリエッタを訪れ、これらパイオニアや元の将校たちについて、「彼らは勇敢な者の中でも勇敢な者達だった。彼等より優れた者は居なかった」と記していた。ジョージ・ワシントンは「私はその開拓者達の多くを個人的に知っている。そのような地域社会の富を促進させるために計算できるような者は他にいない」とコメントしていた。マリエッタはワシントンの名前にちなんだオハイオ州ワシントン郡にあり、同郡の郡庁所在地である。 オハイオ領土の開拓の時に、ステイシーの息子たちの中から2人がパイオニアの小さな集団に加わり、マスキンガム川のマリエッタより上流、ビッグボトムと呼ばれる良い農地となりそうな土地に開拓地の設立を試みた。1790年12月下旬、ステイシーはスケートを履いて凍った川を30マイル (50 km) 登り、息子の2人にインディアンから攻撃の可能性があることを伝えた。その心配は、数日後の1791年1月2日に起きたビッグボトム虐殺で現実のものになった。これが北西インディアン戦争の始まりを告げた。この虐殺事件で12人が殺され、その中にはステイシーの息子であるジョンも入っていた。もう一人の息子であるフィルモンが捕虜に取られ、その後に死亡した。 ウィリアム・ステイシーはマリエッタのパイオニア開拓地の著名で活動的な一員だった。開拓者をインディアンから守るために、ピケッティドポイントと呼ばれた防御策の建設を監督した。ステイシーは民兵隊の士官となり、最初の警察委員会の役員を務めた。さらに、マリエッタ郡区の役員を務め、開拓地内にあった手挽き製粉機2台のうちの1台を所有していた。ステイシーはシンシナティ協会の会員となり、フリーメイソンではマリエッタのアメリカン・ユニオン・ロッジ第1号の設立会員になった。このロッジの名前はベンジャミン・フランクリンが提案したと言われており、その公印はポール・リビアが彫った。ステイシーは北西部領土で初の大陪審で陪審員長を務める栄誉を得た。これはパイオニアの国で初めて民法と刑法を確立したので、重要な出来事だった。 1790年3月、36年間連れ添っていた妻のサラを天然痘で亡くした。同年7月にはハンナ・シェフィールドと再婚した。マリエッタの歴史書に拠れば、「その多くの優れた性質で高く尊敬され、自由のためにその貢献と味わった苦しみ故に栄誉を与えられ」たステイシーは、1802年にマリエッタで死んだ。68歳だった。マリエッタのマウンド墓地に埋葬された。そこは古代のインディアンの埋葬塚だった。ステイシーは、その眠る場所に仲間に恵まれている。その墓所は1つの場所として独立戦争の士官が最も多く埋葬されていると言われている。1928年、マウンド墓地で新しい記念標識がステイシーに捧げられた。
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