帝位継承権第一位
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「ミハイル・アレクサンドロヴィチ (1878-1918)」の記事における「帝位継承権第一位」の解説
ミハイルは他の皇族と同じくロシア帝国陸軍に入隊し、砲術学校を卒業した1897年に親衛騎砲隊に配属された。1899年に次兄ゲオルギー大公が急死すると帝位継承権第一位となったが、ツェサレーヴィチの称号は与えられなかった。これはニコライ2世には娘(オリガ皇女、タチアナ皇女、マリア皇女)しかおらず、後継者たる男子がいなかったための処置であり、1900年にアレクサンドラ皇后が妊娠した際には男子が生まれることを強く望んだ。この際、アレクサンドラは夫が急死した場合は摂政として胎児に代わり政務を執ることを提案したが、政府に反対されミハイルが決定通り帝位継承者と定められた。しかし、周囲の期待とは裏腹に、アレクサンドラが生んだのは女子(アナスタシア皇女)だった。 1901年にヴィクトリア女王が崩御した際にはロシア代表として国葬に参列してバス勲章を授与され、翌1902年のエドワード7世の戴冠式にも参列してガーター勲章を授与された。同年6月に騎兵中隊長に任命され、ガッチナに配属される。ミハイルは国内最大規模の砂糖精製工場を所有し、ポーランドに広大な領地を所有し経済的にも自立していた。 1904年8月12日、ニコライ2世に念願の男子(アレクセイ皇子)が誕生したことに伴い、帝位継承権第一位の座から退くことになった。しかし、ミハイルはニコライ2世が死去した際にはアレクサンドラと共に共同摂政を務める権利が認められた。
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