ムハンマド・アル=バドルとは? わかりやすく解説

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ムハンマド・アル=バドル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/27 07:45 UTC 版)

ムハンマド・アル=バドル
محمد البدر
イエメン国王
北イエメン内戦期のアル=バドル(中央)
在位 1962年9月19日 - 1970年

全名 المنصور محمد البدر بن أحمد
アル=マンスール・ムハンマド・アル=バドル・ビン・アフマド
出生 (1926-02-15) 1926年2月15日
イエメンハッジャ
死去 (1996-08-06) 1996年8月6日(70歳没)
イギリスロンドン
子女 アギッル・ビンモハメッド・アルバドル アブドラ・ビンモハメッド・アルバドル アルアッバス・ビン・ムハンマド・アルバドル
王朝 ラシード朝
父親 アフマド・ビン=ヤフヤ・ハミードゥッディーン
宗教 イスラム教シーア派
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アル=マンスール・ムハンマド・アル=バドル・ビン・アフマドアラビア語: المنصور محمد البدر بن أحمد‎, ラテン文字転写: Al-Mansur Muhammad Al-Badr bin Ahmad)は、イエメン王国第3代(最後の)国王。

生涯

1962年9月19日、前王であった父アフマド・ビン=ヤフヤが没したため即位した。しかし国内、特に軍部の掌握に失敗し、同年9月26日に発生した陸軍のクーデターによりイエメン・アラブ共和国が成立し、国王の座を追われる。クーデターには、エジプトの支援があったとされている。国を脱出した後、サウジアラビアの後ろ盾を得て亡命政権を樹立した。イエメンは、1960年代を通じて国王派と共和国派に分かれた内戦状態(北イエメン内戦)となった。

1970年には、エジプトが第三次中東戦争を契機に軍事支援を中断、イエメンから撤退した。反エジプトで結束していた国王派の多くが目的を失い、幹部の多くが共和国派に取り込まれる形で離脱し、国王派の亡命政権が瓦解した。支えを失ったムハンマド・アル=バドルはイギリスへと亡命、1990年イエメン共和国発足時にもキャスティング・ボートは握れず、イエメン王国復興を果たせぬまま1996年に死去した。

関連項目

王太子時代のアル=バドル(中央)、左はアラブ連合共和国ガマール・アブドゥル=ナーセル大統領、右はシュクリー・アル=クーワトリー(1958年2月、ダマスカスにおける会談)
先代
アフマド・ビン=ヤフヤ
イエメン王国国王
1962年 - 1970年
次代
(王制廃止)



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