メキシコ皇后カルロータとして
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「シャルロッテ・フォン・ベルギエン」の記事における「メキシコ皇后カルロータとして」の解説
1861年、メキシコにベニート・フアレス政権が成立したことにより、英西仏によるメキシコ出兵(干渉)が行われた。欧州列強は、新大陸に対する影響力を保持するため、君主国を樹立させようとする。白羽の矢が立ったのがマクシミリアンであり、シャルロッテは皇后となることに狂喜した。 1863年10月3日、マクシミリアンが皇帝即位を受諾。1864年4月10日、ミラマーレ城にて即位。4月18日、夫妻はトリエステからメキシコへ向かった。皇帝夫妻はメキシコシティのチャプルテペク城に居を構える。夫婦仲は円満であったが子供はなく、メキシコ第一帝政期の皇帝であったアグスティン・デ・イトゥルビデの孫2人を養子とする。しかし、皇帝とはいえフランス皇帝ナポレオン3世の傀儡にしか過ぎず、1866年1月15日、ナポレオン3世がメキシコ駐留フランス軍の引き揚げを決定すると、臨時大統領ベニート・フアレスの指揮する抵抗運動に押され苦境に陥る。シャルロッテの父レオポルド1世の崩御、普墺戦争の勃発もあり、欧州からの支援は絶望的となった。 退位の意思を示し始めたマクシミリアンに対し、シャルロッテは祖父ルイ・フィリップを引き合いに断固として反対し、同年6月9日、支援を求めてヨーロッパに渡った。パリではナポレオン3世の説得にあたり、バチカンではローマ教皇ピウス9世に謁見するが、いずれも失敗。シャルロッテは次第にパラノイアの症状を呈しはじめ、兄フィリップは精神科医にシャルロットを診察させる。精神科医は彼女の発狂を宣告、シャルロッテはミラマーレ城に幽閉される。10月にはこの事実がメキシコのマクシミリアンに伝えられた。 1867年、夫マクシミリアンがフアレスの臨時政府軍に捕えられ、銃殺刑となる。なお、マクシミリアンは死刑直前にシャルロッテ逝去の誤報を受け取っていた。
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