死刑直前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/21 16:09 UTC 版)
朴彭年とともに子孫ともども死六臣とされている。死後に彼の父、兄弟、二人の息子が処刑されたが、未成年者である甥三人が生き残ってその中の弟・河紀地の息子・河源が養子になって代を引き継いだ。 1456年、世祖を殺して端宗を復位しようとはかった死六臣の変が起きると世祖は河緯地の才を惜しんで密かに彼に謨議した事実を告白すれば許してくれるとたしなめたが彼は一笑に付した。問招を受ける時に彼が“もう反逆者と決まり、死刑が決まったのに、今更何を尋ねることがあるか?”と答えると、世祖も怒りが少し収まり河緯地だけが烙刑を受けなかった。 彼は獄門を受けながら世祖に“……もう私に反逆の罪名を着せたからその罪に対して適切に誅殺すればいいだろうに、また何を尋ねるというのだ。”言い返した。世祖は獄門場で彼に自分の便で올것を要請したが河緯地は皆断った。彼は獄門過程で成三問などが灼刑はあわなかったが、死六臣などとともに車裂刑にあった。 彼が処刑されると善山にいた二子河湖・河泊も連座して死刑となった。幼い息子達が死を恐ろしいと母に言うのを“死ぬことは難しくない。父ももう殺害され、私一人がどうして生き残りましょう?朝命がなくとも自決すべき立場です。”と云い、奴婢となった妹に、女の義理を守り、二人の主人を仕えないことを頼んだ後、死を受けたら、皆その父に恥じぬ息子であると誉めた。 息子河潭と河湖・河泊は処刑されたが、未成年であった甥河浦、河亀同(弟河紀地の息子)、河汾(兄河綱地の息子)は生き残った。河亀同は後に名前を河源に改名して河緯地の養子になった。世祖は他の死六臣は息子、父、兄弟、甥まで処刑したが河緯地だけは例外として、甥河浦・河源・河汾は死刑に処せず、辺方で流刑となった。一家は孫박일산が生き残って子孫を伝える朴彭年家とともに直系子孫が伝わる家門でもある。
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