死の体験と流刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:17 UTC 版)
「フョードル・ドストエフスキー」の記事における「死の体験と流刑」の解説
その後、ミハイル・ペトラシェフスキーが主宰する空想的社会主義サークルのサークル員となったため、1849年に官憲に逮捕される。死刑判決を受けるも、銃殺刑執行直前に皇帝ニコライ1世からの特赦が与えられて(この一連の特赦は全て仕組まれたものであった)、シベリアに流刑へ減刑となり、オムスクで1854年まで服役する。 この時の体験に基づいて後に『死の家の記録』を著す。他にも『白痴』などで、死刑直前の囚人の気持ちが語られるなど、この事件は以後の作風に多大な影響を与えた。刑期終了後、セミパラチンスクにおいて兵士として軍隊で勤務した後、1858年にペテルブルクに帰還する。この間に理想主義者的な社会主義者からキリスト教的人道主義者へと思想的変化があった。その後『罪と罰』を発表し、評価が高まる。 自身の賭博にのめり込む性質、シベリア流刑時代に悪化した持病のてんかん(側頭葉てんかんの一種と思われる。恍惚感を伴う珍しいタイプのてんかん)などが創作に強い影響を与えており、これらは重要な要素としてしばしば作品中に登場する。賭博好きな性質は、必然としてその生涯を貧乏生活にした。借金返済のため、出版社との無理な契約をして締め切りに追われる日々を送っていた。あまりのスケジュール過密さのため、『罪と罰』『賭博者』などは口述筆記という形をとった。速記係のアンナ・スニートキナは後にドストエフスキーの2番目の妻となる。 また、小説以外の著名作に『作家の日記』がある。これは本来の日記ではなく、雑誌『市民』でドストエフスキーが担当した文芸欄(のちに個人雑誌として独立)であり、文芸時評(トルストイ『アンナ・カレーニナ』を絶賛)、政治・社会評論、時事評論、エッセイ、短編小説、講演原稿(プーシキン論)、宗教論(熱狂的なロシアメシアニズムを唱えた)を含み、後年ドストエフスキー研究の根本文献となった。ドストエフスキーは『作家の日記』でユダヤ人を批判する反ユダヤ主義的な主張を死去するまで繰り返し、またアーリア民族を賛美した。 晩年に、自身の集大成的作品『カラマーゾフの兄弟』を脱稿。その数ヵ月後の1881年1月28日午後8時30分、家族に看取られながら亡くなった。1月31日にアレクサンドル・ネフスキー大修道院墓地に葬られる。ドストエフスキーの墓には、『カラマーゾフの兄弟』の序文で引用した、新約聖書の『ヨハネによる福音書』第12章24節が刻まれている。 よくよく私はあなたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死なない限り、それは一粒のままだ。だが、死んだのであれば、それは多くの実を結ぶ。 — 『ヨハネによる福音書』第12章24節
※この「死の体験と流刑」の解説は、「フョードル・ドストエフスキー」の解説の一部です。
「死の体験と流刑」を含む「フョードル・ドストエフスキー」の記事については、「フョードル・ドストエフスキー」の概要を参照ください。
- 死の体験と流刑のページへのリンク