死の余波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 00:05 UTC 版)
戦争後に東方のホラーサーンにおけるサーサーン朝の主要都市であったニーシャープール、ヘラート、およびメルヴがエフタルの支配下に入った。ペーローズ1世の娘のペーローズドゥフトと祭司を含む従者たちはフシュナヴァーズに捕らえられた。ペーローズドゥフトはフシュナヴァーズと結婚して娘を産み、この娘は後にペーローズ1世の息子のカワード1世(在位:488年 - 496年、498/9年 - 531年)と結婚した。伝えられるところによれば、ペーローズ1世の敗北が原因となり撤退中の軍隊に対する追撃を禁じる軍事上の規範が作られたといわれている。 エフタルに対するペーローズ1世の戦争は、当時と現代の双方の歴史書において「無謀」であったと評されている。また、ペーローズ1世の敗北と死は、サーサーン朝に政治的、社会的、そして宗教的な混乱期をもたらした。帝国は衰運を極め、今やシャーハーン・シャーはエフタルの被庇護者の立場となり、貢納金の支払いを強いられた。その一方では貴族と聖職者が国家に対して巨大な影響力と権力を振るい、政治を牛耳るようになった。リチャード・ペインは、「サーサーン朝の歴史上、これほどはっきりと(ペルシア帝国の)威信を傷つけた出来事はなく、当時の人々は諸王の王の無謀さに愕然とした」と述べている。さらには東方におけるサーサーン朝の支配力の弱体化に乗じてネーザク・フン(英語版)がザーブリスターン(英語版)を占領した。ペーローズ1世はインドのシンド地方で自分の名を記した金貨を鋳造した最後のシャーハーン・シャーであり、同時期にこの地方の支配が失われたことを示している。 サーサーン朝ではペルシアの有力者であったスーフラー(英語版)がすぐに新しい軍を立ち上げ、エフタルのさらなる成功を食い止めた。カーレーン家に属していたスーフラーの一族は、神話上の英雄であるカーレーン(英語版)とトゥース(英語版)の子孫を称していた。両者はペルシアの王ノウザル(英語版)がトゥーラーンのアフラースィヤーブに殺された後、ペルシアを救ったとされている。リチャード・ペインはこの伝承に関して「偶然と呼ぶにはあまりにもペーローズ1世の死と状況が似ている」と指摘している。また、イラン学者のエフサン・ヤルシャテル(英語版)は、中世ペルシアの叙事詩である『シャー・ナーメ』(王の書)において描かれているいくつかのペルシアとトゥーラーンの戦いは、ペーローズ1世とその後継者たちによるエフタルに対する戦争に基づいているように見えると指摘している。ペーローズ1世の死後、特にスーフラーとシャープール・ミフラーンを中心としたペルシアの有力者たちがペーローズ1世の兄弟のバラーシュをシャハーン・シャーに推戴した。バラーシュの後を継いだカワード1世は帝国を改革するとともにエフタルを破ってホラーサーンを再征服し、秩序を回復させた。ペーローズ1世の死への報復は孫のホスロー1世(在位:531年 - 579年)によって達成され、ホスロー1世は突厥と協力して560年にエフタルを打倒した。
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