死の光線(Death ray)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/03 09:20 UTC 版)
「ハリー・グリンデル・マシューズ」の記事における「死の光線(Death ray)」の解説
1923年にマシューズは、自分は、マグネトー(magneto)を故障させるであろう電気光線(electric ray)を発明したと主張した。選ばれた数人のジャーナリストへの実演において、彼は、遠くからオートバイのエンジンをとめた。彼はまた、十分な力があれば4マイルの距離から、航空機を撃墜し、火薬を爆発させ、船をとめ、歩兵を無能力にすることができると主張した。新聞諸紙は、彼の発明のセンセーショナルな記事を掲載することによって貸しを作りありがたく思わせた。 陸軍省は1924年2月に、マシューズにコンタクトを取って光線の実演を要求した。マシューズは彼らに答えず、ジャーナリストに話しかけ、1人の『Star』の記者に対して、遠くから火薬に点火することによって光線を実演した。彼はそれでもなお、どのように光線が実際に働くのかを言うのを拒み、ただそれは働くと主張しただけである。英国政府がまだ、彼のアイデアを急いで買うことを拒んだとき、彼は自分はフランスから申し出が来ていると告知した。 空軍は用心深かったが、これはひとつには、発明家気取りの人間らの、以前のいやな経験のためであった。マシューズは、4月26日に武装部隊に対して光線を実演するためにふたたびロンドンに招待された。マシューズの研究所で、彼らは、彼の光線が電球のスイッチを入れ、モーターを動かなくするのを見た。彼は、公務員らを納得させられなかったし、彼らは、ごまかしあるいは信用詐欺を疑った。英国海軍がさらなる実演を要求したとき、マシューズはそれをすることを拒んだ。 1924年5月27日に、ロンドンの高等法院(High Court)は、マシューズの投資家らに、彼が死の光線の権利を売ることを禁じるという差止め命令を出した。あらたな取引を交渉するためにマシューズの研究所に到着したとき、マシューズはすでにパリに飛んでいた。マシューズの後援者らも姿を現わし、それからクロイドン空港に急いだが、しかし遅すぎた。 公衆の激怒は、陸軍省に対して死の光線を実演したかったさまざまな他の発明家気取りの人間らの関心を引き付けた。彼らのうちだれにも、説得力はなかった。5月28日に第10代ストラボルジ男爵ジョセフ・ケンワーシー(Joseph Kenworthy, 10th Baron Strabolgi) は、庶民院で、政府は、マシューズが光線を外国勢力に売ることを止めて何を意図しているのか質問した。空軍担当の次官は、マシューズは、彼らが光線を満足するまで調査させておこうとしなかったと答えた。政府代表者も、或る高官は、光線の前に立ち、生き延びていると述べた。新聞諸紙は、マシューズを応援し続けた。 政府は、マシューズが、航空省を満足させる条件下でガソリンのオートバイのエンジンをとめることを依頼した。彼は、1000ポンドとさらなる考慮を受け取った。フランスから、マシューズは、自分はよろこんでそういう証拠を示さないこと、自分はすでに選ぶべき8つの入札があると答えた。彼はまた、自分は実験のために左眼を失明したと主張した。彼の、フランスの後援者ウジェーヌ・ロワイエ(Eugene Royer)とのかかわりは、英国におけるさらなる疑惑をかきたてた。 サー・サミュエル・インストーン(Sir Samuel Instone)とその兄弟セオドア(Theodore)は、もし彼が光線を英国内にとどめ、それがじっさいに働くことを実演するならば巨額の俸給を与えようと申し出た。マシューズはふたたび断った - 彼は、自分が主張したように光線が働くということを証明したくなかった。 マシューズは1924年6月1日にロンドンに戻り、そして『Sunday Express』のインタヴューを受けた。彼は、自分はロワイエと取引があると主張した。報道はふたたび彼に味方した。マシューズがよろこんでしようとした唯一の実演は、『パテ』(Pathé)映画『The Death Ray』に、自分のアイデアを、自分なりに満足するまで宣伝させることであった。映画のなかの装置は、政府高官が見た物とは似ていなかった。 1924年7月に、マシューズは、発明を市場に売り出すためにアメリカへ発った。彼は、マディソン・スクエア・ガーデンでラジオ・ワールド・フェア(Radio World Fair)で光線を実演するのに25000ドルを出そうと申し出を受けたとき、彼はふたたび断り、そして根拠なしに、自分はイングランド以外でそれを実演することを許されていないと主張した。アメリカの科学者らは、強く印象づけられなかった。ウッズ(Woods)という或る教授は、自分の不信をはっきりと表示するために死の光線装置の前に立とうと申し出た。おかまいなしに、マシューズは、イギリスに戻ったとき、アメリカが自分の光線を買ったと主張したが、しかしだれがそれを買ったのか、またいくらでなのか、言うことを拒んだ。マシューズはアメリカに移り、ワーナー・ブラザースのために働き始めた。
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