若狭・越前での亡命生活
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8月29日、六角氏が叛意を翻したことや、三好側が矢島を襲撃するという風聞も流れていたこともあって、義秋は妹婿の武田義統を頼り、若狭国へ移った。このとき、義秋は4、5人の供のみを従えるだけであったという。 しかし、京都北白川に出城を構え、応仁の乱では東軍の副将を務めて隆盛を極めた若狭武田氏も、義統と息子の武田元明との家督抗争や重臣の謀反などから国内が安定しておらず、上洛できる状況でなかった。そのため、義統は出兵の代わりとして、弟の武田信景を義秋に仕えさせた。 9月8日、義秋は若狭から越前国敦賀へと移動した。その後、朝倉景鏡が使者として赴き、義秋は朝倉義景のいる一乗谷に迎えられた。義景は細川藤孝らによる南都脱出の立役者であったとする見方がある一方で、すでに足利将軍家連枝の鞍谷御所・足利嗣知(足利義嗣の子孫)も抱えており、義秋を奉じての積極的な上洛をする意思を表さなかったため、滞在は長期間となった。 義秋は一乗谷において、朝倉氏と加賀一向一揆との講和を行ったり、上杉輝虎に上洛を要請したりしたものの、これらは実現に至らなかった。この頃、義秋のもとには上野清信(清延)・大舘晴忠などのかつての幕府重臣や諏訪晴長・飯尾昭連・松田頼隆などの奉行衆が帰参した。 永禄10年11月21日、義秋は一乗谷の安養寺に移った。義秋は朝倉氏と加賀一向一揆との講和を再度図り、義景が応じたことで和議が成立した。その後、双方で人質交換が行われ、国境の城と砦が破却された。 義秋はまた、輝虎と甲斐の武田信玄・相模の北条氏政の講和を図っている。なお、義秋は朝倉氏よりも上杉輝虎を頼りにしていたという。だが、輝虎は武田信玄との対立と、その信玄の調略を受けた揚北衆の本庄繁長の反乱、越中の騒乱などから上洛・出兵などは不可能であった。他の大名からも積極的な支援の動きは見られなかった。この時期、義秋の御内書には、義景の副状が添えられている。 永禄11年(1568年)2月8日、義秋の対抗馬である足利義栄が摂津の普門寺に滞在したまま、将軍宣下を受けた。血筋や幕府の実務を行う奉行衆の掌握といった点で次期将軍候補としては対抗馬である義栄よりも有利な環境にありながら、いつまでも上洛できない義秋に対して、京都の実質的支配者であった三好三人衆が擁する義栄が、義輝によって取り潰された元政所執事の伊勢氏の再興を約束するなど、朝廷や京都に残る幕臣への説得工作を続けた結果でもあった。 3月8日、義秋は義景の母を従二位にすることを朝廷に上奏して、これが実現している。その酒宴は終日終夜に及んで行われた。 4月15日、義秋は「秋」の字は不吉であるとし、京都から前関白の二条晴良を越前に招き、一乗谷の朝倉氏の館において元服式を行い、名を義昭と改名した。なお、山科言継も招かれる予定だったが、費用の問題から晴良だけになった。加冠役は朝倉義景が務めているが、兄の義輝が六角定頼を管領代にとして加冠役にした前例に倣って、義景を管領代に任じたうえで行われた。
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