若狭・越前での亡命生活とは? わかりやすく解説

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若狭・越前での亡命生活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 18:30 UTC 版)

足利義昭」の記事における「若狭・越前での亡命生活」の解説

8月29日六角氏叛意翻したことや、三好側が矢島襲撃するという風聞流れていたこともあって、義秋妹婿武田義統頼り若狭国移った。このとき、義秋4、5人の供のみを従えるだけであったという。 しかし、京都北白川出城構え応仁の乱では東軍副将務めて隆盛極めた若狭武田氏も、義統と息子の武田元明との家督抗争重臣謀反などから国内安定しておらず、上洛できる状況でなかった。そのため、義統は出兵代わりとして、弟の武田信景義秋仕えさせた。 9月8日義秋若狭から越前国敦賀へと移動したその後朝倉景鏡使者として赴き、義秋朝倉義景のいる一乗谷迎えられた。義景は細川藤孝らによる南都脱出立役者であったとする見方がある一方で、すでに足利将軍家連枝鞍谷御所足利嗣知(足利義嗣の子孫)も抱えており、義秋奉じて積極的な上洛をする意思を表さなかったため、滞在長期間となった義秋一乗谷において、朝倉氏加賀一向一揆との講和行ったり、上杉輝虎上洛要請したしたものの、これらは実現に至らなかった。この頃義秋のもとには上野清信清延)・大舘晴忠などのかつての幕府重臣諏訪晴長・飯尾昭連・松田頼隆などの奉行衆帰参した。 永禄10年11月21日義秋一乗谷安養寺移った義秋朝倉氏加賀一向一揆との講和再度図り、義景が応じたことで和議成立したその後双方人質交換が行われ、国境の城と砦が破却された。 義秋また、輝虎甲斐武田信玄相模北条氏政講和図っている。なお、義秋朝倉氏よりも上杉輝虎頼りにしていたという。だが、輝虎武田信玄との対立と、その信玄調略受けた揚北衆本庄繁長反乱越中騒乱などから上洛出兵などは不可であった。他の大名からも積極的な支援の動き見られなかった。この時期義秋御内書には、義景の副状添えられている。 永禄11年1568年2月8日義秋対抗馬である足利義栄摂津普門寺滞在したまま、将軍宣下受けた血筋幕府実務を行う奉行衆掌握といった点で次期将軍候補としては対抗馬である義栄よりも有利な環境ありながらいつまで上洛できない義秋に対して京都実質的支配者であった三好三人衆擁する義栄が、義輝によって取り潰され元政執事伊勢氏再興約束するなど、朝廷京都に残る幕臣への説得工作続けた結果でもあった。 3月8日義秋は義景の母を従二位にすることを朝廷上奏して、これが実現している。その酒宴終日終夜及んで行われた4月15日義秋は「秋」の字は不吉であるとし、京都から前関白二条晴良越前招き一乗谷朝倉氏の館において元服式を行い、名を義昭改名した。なお、山科言継招かれる予定だったが、費用問題から晴良だけになった加冠役朝倉義景務めているが、兄の義輝六角定頼管領代にとして加冠役にした前例倣って、義景を管領代任じたうえで行われた

※この「若狭・越前での亡命生活」の解説は、「足利義昭」の解説の一部です。
「若狭・越前での亡命生活」を含む「足利義昭」の記事については、「足利義昭」の概要を参照ください。

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