武士への対応
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「建武の新政#御家人制の撤廃」および「建武の新政#足利兄弟の重用」も参照 幕府を滅ぼしたことにより、後醍醐は武士に対して恩賞を与える立場となった。地方においては陸奥将軍府や鎌倉将軍府を開いてそのポストに武士を登用することで恩賞としたが、京には武士が新しく恩賞として獲得できるポストが存在しなかった。そのため、雑訴決断所を開設しそこに武士層を吸収させた。しかし、「二条河原の落書」に「器用の堪否沙汰もなく、もるる人なき決断所」と見えるように、才能の有無を考慮せずに任命が行われており、雑訴決断所は公家と武家を統合した権力組織として、後醍醐の専制政治の中核となるはずであったが、結果的に公家も武家も不満を募らせた。公家は家格から見れば極めて低い地位の執行官・吏僚にされてしまったことや、武家と共に働かねばならないことに納得ができず、武家は公家より立場が下であったことや対して功も無いのに偉ぶっているのが気に食わなかった。つまり、決断所の人的構成(公家と武家)は「水と油の関係」であった。また、公家は訴訟関係の経験不足が著しく、そのような者を裁判機関の中に組み込んでも混乱が増すだけであった。 他にも後醍醐は、鎌倉幕府の御家人身分(御恩と奉公によって征夷大将軍に直属する武士の特権階級)を撤廃した。これは一つには当時御家人制度が社会の実態にそぐわなかったことが挙げられる。 また、恩賞として官位を与える制度を再興し、数々の武士を朝廷の高官に取り立てた。公卿の親房からは厳しく批難されたものの、後には親房自身がこの制度を利用して南朝運営に大きな成功を挙げている(→北畠親房からの評価)。 後醍醐天皇が好んでいたのは、行政的な実務手腕に優れた官僚型の武士であり、記録所・恩賞方・雑訴決断所といった新政権の重要機関に(特に雑訴決断所に)、鎌倉以来の実務官僚武家氏族が多く登用された。鎌倉幕府の本拠地鎌倉からよりも六波羅探題からの登用の方が多く、これは、鎌倉では北条氏と繋がりを持つ氏族からの縁故採用が多かったのに対し、六波羅探題には純粋に官僚的能力によって昇進した実力派が集っていたからではないか、という。また、森幸夫によれば、一般的には武将としての印象が強い楠木正成と名和長年だが、この二人は特に建武政権の最高政務機関である記録所寄人に大抜擢されていることから、実務官僚としても相応の手腕を有していたのではないか、という。 後醍醐天皇に抜擢され、地方から京に集った武家官僚たちは、京都という政治・文化の中枢に身を置くことで、能力や地位を向上させていった。例えば、諏訪円忠は、鎌倉幕府では一奉行人に過ぎなかったが、建武政権で雑訴決断所職員を経験して能力と人脈を磨いたのち、室町幕府では最高政務機関である評定衆の一人となっている。中でも著名なのが、後に室町幕府初代執事となる足利氏執事高師直で、亀田俊和によれば、地方の一勢力の家宰に過ぎなかった師直が、政治家としても武将としても全国的な水準で一流になることが出来たのは、建武政権下で楠木正成ら優秀な人材と交流できたからではないか、という。高師直は、後に、後醍醐天皇の政策の多くを改良した上で室町幕府に取り入れている。 また、(建武の乱が発生するまでは)足利尊氏をことのほか寵愛した。尊氏の名は初め「高氏」と表記したが(北条高時からの偏諱)、元弘3年/正慶2年(1333年)8月5日、後醍醐天皇から諱(本名)「尊治」の一字「尊」を授与されたことにより、以降、足利尊氏と名乗るようになった。元弘の乱後の軍功認定は、尊氏と護良親王(後醍醐天皇の実子)が担ったが、護良親王が独自の権限で認定したのに対し、尊氏は後醍醐天皇の忠実な代行者として、護良親王以上の勤勉さで軍功認定を行った。後醍醐天皇は尊氏に30ヶ所の土地と、鎮守府将軍・左兵衛督・武蔵守・参議など重要官職を惜しみなく与え、さらに鎮守府将軍として建武政権の全軍指揮権を委ねて、政治の中枢に取り入れた。鎮守府将軍はお飾りの地位ではなく、尊氏は九州での北条氏残党討伐などの際に、実際にこれらの権限を行使した。弟の直義もまた、15ヶ所の土地と鎌倉将軍府執権(実質的な関東の指導者)など任じられた。なお、『梅松論』に記録されている、公家たちが「無高氏(尊氏なし)」と吹聴したという事件は、かつては尊氏が政治中枢から排除されたのだと解釈されていたが、吉原弘道は、新研究の成果を踏まえ、尊氏が受けた異例の厚遇を、公家たちが嫉妬したという描写なのではないか、と解釈している。 後醍醐天皇は、既に倒れた得宗北条高時に対しては、その冥福を祈り、建武2年(1335年)3月ごろ、腹心の尊氏に命じて、鎌倉の高時屋敷跡に宝戒寺を建立することを企画した。その後の戦乱で造営は一時中断されていたが、観応の擾乱(1350–1352)を制して幕府の実権を握った尊氏は、円観を名義上の開山(二世の惟賢を実質的な開山)として、正平8年/文和2年(1353年)春ごろから造営を再開、翌年ごろには完成させ、後醍醐の遺志を完遂している。また、高時の遺児の北条時行は中先代の乱で一時は後醍醐天皇に反旗を翻したが、のち南北朝の内乱が始まると尊氏よりは後醍醐に付くことを望み、後醍醐もこれを許して、有力武将として重用した。 とはいえ、後醍醐天皇に対立し続けた武家氏族は、建武政権では信任されなかった。たとえば、摂津氏・松田氏・斎藤氏らは、鎌倉幕府・六波羅探題で代々実務官僚を務めた氏族であり、能力としては後醍醐天皇の好みに合っていたはずだが、北条氏に最後まで忠誠を尽くしたため、数人の例外を除き、建武政権下ではほぼ登用されることはなかった。 建武の乱の発生以降は、かつては寵遇した尊氏を「凶徒」と名指しするなど、対決路線を明確にした(『阿蘇文書』(『南北朝遺文 九州編一』514号))。その一方で、北畠親房や親房を信任した後村上天皇が偏諱の事実を拒絶し尊氏を「高氏」と呼ぶのに対し、後醍醐天皇は最期まで尊氏のことを一貫して「尊氏」と書き続けた。このことについて、森茂暁は「後醍醐のせめてもの配慮なのかもしれない」とし、岡野友彦もまた、尊氏を徹底的に嫌う親房とは温度差があり、建武の乱発生後も、後醍醐は親房ほどには尊氏を敵視していなかったのではないかとする。
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