武士への対応とは? わかりやすく解説

武士への対応

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)

後醍醐天皇」の記事における「武士への対応」の解説

建武の新政#御家人制の撤廃」および「建武の新政#足利兄弟の重用」も参照 幕府滅ぼしたことにより、後醍醐武士に対して恩賞与え立場となった地方においては陸奥将軍府鎌倉将軍府開いてそのポスト武士登用することで恩賞としたが、京には武士新しく恩賞として獲得できるポスト存在しなかった。そのため、雑訴決断所開設しそこに武士層を吸収させた。しかし、「二条河原の落書」に「器用の堪否沙汰もなく、もるる人なき決断所と見えるように、才能有無考慮せず任命が行われており、雑訴決断所公家武家統合した権力組織として、後醍醐専制政治中核となるはずであったが、結果的に公家武家も不満を募らせた。公家家格から見れば極めて低い地位執行官吏僚にされてしまったことや、武家と共に働かねばならないことに納得ができず、武家公家より立場が下であったことや対して功も無いのに偉ぶっているのが気に食わなかった。つまり、決断所人的構成公家武家)は「と油の関係」であったまた、公家訴訟関係経験不足が著しくそのような者を裁判機関中に組み込んで混乱が増すだけであった。 他にも後醍醐は、鎌倉幕府御家人身分御恩と奉公によって征夷大将軍直属する武士の特権階級)を撤廃した。これは一つには当時御家人制度社会実態にそぐわなかったことが挙げられるまた、恩賞として官位与え制度再興し数々武士朝廷高官取り立てた公卿の親房からは厳しく批難されたものの、後には親房自身がこの制度利用して南朝運営大きな成功挙げている(→北畠親房からの評価)。 後醍醐天皇好んでいたのは、行政的実務手腕優れた官僚型の武士であり、記録所恩賞方雑訴決断所といった新政権の重要機関に(特に雑訴決断所に)、鎌倉以来実務官僚武家氏族多く登用された。鎌倉幕府本拠地鎌倉からよりも六波羅探題からの登用の方が多く、これは、鎌倉では北条氏繋がりを持つ氏族からの縁故採用多かったのに対し六波羅探題には純粋に官僚的能力によって昇進した実力派集っていたからではないか、という。また、幸夫によれば一般的には武将として印象が強い楠木正成名和長年だが、この二人は特に建武政権の最高政機関である記録所寄人大抜擢されていることから、実務官僚としても相応の手腕を有していたのではないか、という。 後醍醐天皇抜擢され地方から京に集った武家官僚たちは、京都という政治・文化中枢身を置くことで、能力地位を向上させていった例えば、諏訪円忠は、鎌倉幕府では一奉行人に過ぎなかったが、建武政権雑訴決断所職員経験して能力人脈磨いたのち、室町幕府では最高政機関である評定衆一人となっている。中でも著名なのが、後に室町幕府初代執事となる足利氏執事高師直で、亀田俊和によれば地方の一勢力家宰に過ぎなかった師直が、政治家としても武将として全国的な水準一流になることが出来たのは、建武政権下で楠木正成優秀な人材交流できたからではないか、という。高師直は、後に、後醍醐天皇政策多く改良した上で室町幕府取り入れている。 また、建武の乱発生するまでは)足利尊氏ことのほか寵愛した。尊氏の名は初め高氏」と表記したが(北条高時からの偏諱)、元弘3年/正慶2年1333年8月5日後醍醐天皇から諱(本名)「尊治」の一字「尊」を授与されたことにより、以降足利尊氏名乗るようになった元弘の乱後の軍功認定は、尊氏護良親王後醍醐天皇実子)が担ったが、護良親王が独自の権限認定したのに対し尊氏後醍醐天皇忠実な代行者として、護良親王上の勤勉さ軍功認定行った後醍醐天皇尊氏30ヶ所の土地と、鎮守府将軍左兵衛督武蔵守参議など重要官職惜しみなく与え、さらに鎮守府将軍として建武政権全軍指揮権委ねて政治中枢取り入れた鎮守府将軍お飾り地位ではなく尊氏九州での北条氏残党討伐などの際に、実際にこれらの権限行使した。弟の直義また、15ヶ所の土地鎌倉将軍府執権実質的な関東指導者)など任じられた。なお、『梅松論』に記録されている、公家たちが「無高氏(尊氏なし)」と吹聴したという事件は、かつては尊氏政治中枢から排除されたのだと解釈されていたが、吉原弘道は、新研究の成果踏まえ尊氏受けた異例厚遇を、公家たちが嫉妬したという描写なのではないか、と解釈している。 後醍醐天皇は、既に倒れた得宗北条高時に対しては、その冥福祈り建武2年1335年3月ごろ、腹心尊氏命じて鎌倉高時屋敷跡宝戒寺建立することを企画したその後戦乱造営一時中断されていたが、観応の擾乱1350–1352)を制して幕府実権握った尊氏は、円観名義上の開山二世の惟賢を実質的な開山)として、正平8年/文和2年1353年)春ごろから造営再開翌年ごろには完成させ、後醍醐遺志完遂している。また、高時遺児北条時行中先代の乱一時後醍醐天皇反旗を翻したが、のち南北朝の内乱が始まると尊氏よりは後醍醐に付くことを望み後醍醐もこれを許して、有力武将として重用したとはいえ後醍醐天皇対立し続けた武家氏族は、建武政権では信任されなかった。たとえば、摂津氏松田氏斎藤氏らは、鎌倉幕府六波羅探題代々実務官僚務めた氏族であり、能力としては後醍醐天皇好み合っていたはずだが、北条氏最後まで忠誠尽くしたため、数人例外除き建武政権下ではほぼ登用されることはなかった。 建武の乱発生以降は、かつては寵遇した尊氏を「凶徒」と名指しするなど、対決路線明確にした(『阿蘇文書』(『南北朝遺文 九州編一』514号))。その一方で北畠親房や親房を信任した後村上天皇偏諱事実拒絶し尊氏を「高氏」と呼ぶのに対し後醍醐天皇最期まで尊氏のことを一貫して尊氏と書き続けた。このことについて、森茂暁は「後醍醐せめてもの配慮なのかもしれない」とし、岡野友彦また、尊氏徹底的に嫌う親房とは温度差があり、建武の乱発生後も、後醍醐は親房ほどには尊氏敵視していなかったのではないかとする。

※この「武士への対応」の解説は、「後醍醐天皇」の解説の一部です。
「武士への対応」を含む「後醍醐天皇」の記事については、「後醍醐天皇」の概要を参照ください。

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