武士の殉死とは? わかりやすく解説

武士の殉死

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 19:11 UTC 版)

「殉死」記事における「武士の殉死」の解説

近世初期逸話集めた書物明良洪範3巻では、殉死真に主君への忠義から出た「義腹」(ぎばら)、誰かが殉死するために自分殉死しなければならないとする理屈に基づく「論腹」(ろんばら)、殉死することで子孫栄達を図る「商腹」(あきないばら)に分類している。しかし、殉死者の家族加増受けたり栄達したりしたケースほとんどない。さらに、殉死者の家に男子跡継ぎがいない場合でも母が援助されたり、弟や甥が家督譲られたりしたこともないこのため「商腹」が実行されたことは兆候さえなく、歴史的事実ではないとされる主君討ち死にしたり、敗戦により腹を切ったりした場合家来達が後を追って討ち死にした切腹したりした(『明徳記』)。しかし、主君病死など自然死場合殉死する習慣は、戦国時代にはなかった。ところが、江戸時代に入ると戦死する機会少なくなったことにより主君への忠誠示せなくなったため、自然死場合でも家臣殉死をするようになったという。1607年慶長12年)に松平忠吉病死した際の殉死最初であるといわれ、同年結城秀康病死後に万石取り重臣らが後を追い盛行した徳川秀忠家光死に際しては老中老中経験者殉死している。こうした行動背景にはかぶき者男色との関連があるという説もある。家光殉じなかった松平信綱世間批判を受け、「仕置だてせずとも御代はまつ平 爰(ここ)にいづとも死出供せよ」という落首が貼り出された。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}なお、1598年慶長3年)の豊臣秀吉死に際して古田重定古田織部の父)が殉死した例が病死し主君への殉死としては松平忠吉の例より古い[要出典]。 4代将軍徳川家綱から5代綱吉治世期には、幕政武断政治から文治政治へと移行しつつあった。幕府先立ち寛文元年1661年7月水戸藩主徳川光圀重臣団からの徳川頼房への殉死願い許さず同年8月には会津藩保科正之殉死禁止藩法加えた当時幕閣指導していた保科正之指導の下、寛文3年1663年5月武家諸法度公布とともに幕府殉死は「不義無益」であるとしてその禁止が各大名家口頭伝達された。1668年には禁に反したという理由宇都宮藩奥平昌能転封処分受けている(追腹一件)。殉死禁止は、家臣主君との情緒的人格的関係を否定し家臣は「主君の家」に仕えるべきであるという新たな主従関係構築意図したものだと考えられるこの後延宝8年堀田正信家綱死去の報を聞いて自害しているが、一般にはこれが江戸時代最後殉死とされている。天和3年には末期養子禁止緩和とともに殉死の禁は武家諸法度組み込まれ本格的な禁令なされた

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