武士の殉死
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近世初期の逸話を集めた書物『明良洪範』3巻では、殉死を真に主君への忠義から出た「義腹」(ぎばら)、誰かが殉死するために自分も殉死しなければならないとする理屈に基づく「論腹」(ろんばら)、殉死することで子孫の栄達を図る「商腹」(あきないばら)に分類している。しかし、殉死者の家族が加増を受けたり栄達したりしたケースはほとんどない。さらに、殉死者の家に男子の跡継ぎがいない場合でも母が援助されたり、弟や甥が家督を譲られたりしたこともない。このため「商腹」が実行されたことは兆候さえなく、歴史的事実ではないとされる。 主君が討ち死にしたり、敗戦により腹を切ったりした場合、家来達が後を追って討ち死にしたり切腹したりした(『明徳記』)。しかし、主君が病死など自然死の場合に殉死する習慣は、戦国時代にはなかった。ところが、江戸時代に入ると戦死する機会が少なくなったことにより主君への忠誠が示せなくなったため、自然死の場合でも家臣が殉死をするようになったという。1607年(慶長12年)に松平忠吉が病死した際の殉死が最初であるといわれ、同年の結城秀康病死後に万石取りの重臣らが後を追い、盛行した。徳川秀忠や家光の死に際しては老中・老中経験者が殉死している。こうした行動の背景にはかぶき者や男色との関連があるという説もある。家光に殉じなかった松平信綱は世間の批判を受け、「仕置だてせずとも御代はまつ平 爰(ここ)にいづとも死出の供せよ」という落首が貼り出された。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}なお、1598年(慶長3年)の豊臣秀吉の死に際して古田重定(古田織部の父)が殉死した例が病死した主君への殉死としては松平忠吉の例より古い[要出典]。 4代将軍徳川家綱から5代綱吉の治世期には、幕政が武断政治から文治政治へと移行しつつあった。幕府に先立ち寛文元年(1661年)7月、水戸藩主徳川光圀が重臣団からの徳川頼房への殉死願いを許さず、同年閏8月には会津藩主保科正之が殉死の禁止を藩法に加えた。当時の幕閣を指導していた保科正之の指導の下、寛文3年(1663年)5月の武家諸法度の公布とともに、幕府は殉死は「不義無益」であるとしてその禁止が各大名家に口頭伝達された。1668年には禁に反したという理由で宇都宮藩の奥平昌能が転封処分を受けている(追腹一件)。殉死の禁止は、家臣と主君との情緒的人格的関係を否定し、家臣は「主君の家」に仕えるべきであるという新たな主従関係の構築を意図したものだと考えられる。 この後、延宝8年に堀田正信が家綱死去の報を聞いて自害しているが、一般にはこれが江戸時代最後の殉死とされている。天和3年には末期養子禁止の緩和とともに殉死の禁は武家諸法度に組み込まれ、本格的な禁令がなされた。
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