御家再興への道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 23:26 UTC 版)
同5年(1600年)関ヶ原の戦いで撤退する盛親を守って帰国し、徳川家康への謝罪のために上坂する盛親に付き従った。 長宗我部家改易の後、山内一豊に仕えたが、浦戸一揆の大将だったという讒言があり、康俊は陳謝の末、死罪だけは免れ土佐を立ち退き大和に隠棲する。 19年(1614年)大坂の陣が始まると大坂城に入り、京に蟄居していた盛親に合流する。この際に通称を孫左衛門から右近に改めた。 長宗我部勢は12月4日に真田丸の戦いが始まると、城内の火薬庫が爆発した事故を南条元忠の寝返りの合図と勘違いして押し寄せてきた井伊直孝隊・松平忠直隊に応戦し、損害を与えて退却させた。従兄弟の政重の奮戦は有名である。 20年(1615年)5月6日の未明、八尾・若江の戦いで藤堂高虎勢と激突、互いに大損害を出す。先方の吉田重親ら多数が戦死する。 落城後の5月15日に盛親が京都の六条河原で斬首。 康俊は松平忠明に仕えて姫路に住み、寛永11年(1634年)に死亡した。84歳だったという。 長宗我部家の主要な戦いにはすべて参加したという。
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