御家断絶と赤穂藩邸の暴徒退治
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「堀部武庸」の記事における「御家断絶と赤穂藩邸の暴徒退治」の解説
ところが、元禄14年3月14日(1701年4月21日)、主君・長矩が江戸城松之大廊下で高家・吉良義央に刃傷に及び、長矩は即日切腹、赤穂浅野家は改易と決まった。それを聞いた江戸の町人や浪人の中で、其々の赤穂藩邸に忍び込んで空巣をやる者や、堂々と押し入って暴れる者が続出した。人数は四、五十人にも及び、その中には、鉄砲洲の対岸から舟で乗り付け上屋敷に傾れ込む者まで出現した。大垣藩や浅野本家の広島藩から警護のものが派遣されている。武庸も暴徒の撃退に加わり、金品強奪や破壊から藩邸を守った(『堀部武庸日記』。書簡にも同様の内容がある)。
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