御家人の乱
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建久元年(1190年)9月、頼朝の上洛に際して義盛は先陣を賜った。12月1日、右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれて参院の供奉をした。さらに、これまでの勲功として頼朝に御家人10人の成功推挙が与えられた時、その1人に入り左衛門尉に任ぜられる。 建久3年(1192年)、侍所別当職を梶原景時と交代。『吾妻鏡』によれば、景時が「一日だけでも」と義盛に頼み、所領へ帰る暇のついでに職を預けたが、景時の奸謀によってそのまま奪われてしまったという。 建久10年(1199年)正月に頼朝が死去し、源頼家が2代将軍になると義盛は宿老として十三人の合議制に列した。 10月、梶原景時が結城朝光を讒言する事件が起こる。これを知った御家人たちは激怒し、義盛や従弟・三浦義村ら諸将66人の連署での梶原景時弾劾状を作成して大江広元へ提出した。広元は御家人間の抗争を恐れて、しばらくこの弾劾状を留めていた。11月になって、それを知った義盛は御所で広元と会い「貴殿は関東の爪牙耳目として、長年働いてきた。景時の権威を恐れて諸将の鬱憤を隠し立てするのは、法に違えるのではないか」と激しく詰問した。やむなく、広元は弾劾状を頼家に披露した。景時は失脚して鎌倉を退去し、翌正治2年(1200年)正月に討伐されて滅びている(梶原景時の変)。同年2月、景時の失脚によって、義盛は侍所別当に復職した。 建仁3年(1203年)、北条氏と比企氏との間で抗争が発生。比企氏当主の比企能員は頼家の愛妾で嫡男一幡を生んだ若狭局の父で、権勢を振るい幕府の実力者北条時政の脅威となっていた。頼家が病に伏し危篤状態にあった9月2日、時政は能員を謀殺。比企一族は一幡と若狭局を擁して小御所に立て籠もった。北条氏は尼御台・北条政子の名で御家人に比企氏討伐を命じ、侍所別当の義盛もこれに参加して比企氏は攻め滅ぼされた(比企能員の変)。 9月5日、危篤から回復した頼家は我が子・一幡と舅の比企氏一族の滅亡を知って激怒し、義盛と仁田忠常に宛てて北条氏討伐を命じる御教書を書き、堀親家に遣いさせ届けさせた。義盛は思慮の上で、この御教書を北条時政に届けた。堀親家は捕えられて殺され、仁田忠常は北条氏によって滅ぼされた。 9月7日、頼家は将軍職を奪われ出家させられ、伊豆修善寺へ追放された。代わって弟の実朝が将軍職に就任し、時政は初代執権に就任する。 元久2年(1205年)6月、北条時政の策謀により畠山重忠に謀反の疑いがかけられ、時政の嫡男の義時を総大将とする討伐の軍が発せられ、義盛も一手の大将軍として出陣、幕府の大軍を前に重忠とその一族は滅ぼされた(畠山重忠の乱)。その後、時政は実朝の廃立を画策するが政子と義時が同意せずに失敗し失脚した(牧氏事件)。代わって義時が2代執権に就任した。 承元3年(1209年)、義盛は上総国司の職を内々に望む。将軍実朝はこれを聞き入れようとし政子と相談するが、頼朝の頃より御家人が受領となることは停止されていることを理由に拒絶された。実際には「頼朝の例」は後白河院との対立による特殊なケースであり、実朝の頃には平賀朝雅や八田知家のように、御家人が受領となる例は既に存在していたため、これは政子による義盛への牽制、あるいは嫌がらせであった。義盛はなおも正式に大江広元を通じて款状を提出し、治承寿永以来の勲功を述べ、「一生の余執」として上総国司を望んだ。しかし、願いは聞き届けられず、承元5年(1211年)12月になって款状は義盛に差し戻されてしまった。
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