御家人の乱とは? わかりやすく解説

御家人の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 13:28 UTC 版)

和田義盛」の記事における「御家人の乱」の解説

建久元年1190年9月頼朝の上に際して義盛は先陣賜った12月1日右近衛大将拝賀随兵7人の内に選ばれ参院供奉をした。さらに、これまでの勲功として頼朝御家人10人の成功推挙与えられた時、その1人に入り左衛門尉に任ぜられる。 建久3年1192年)、侍所別当職を梶原景時交代『吾妻鏡』によれば、景時が「一日だけでも」と義盛に頼み所領帰る暇のついでに職を預けたが、景時の奸謀によってそのまま奪われてしまったという。 建久10年1199年正月頼朝死去し源頼家2代将軍になると義盛は宿老として十三人の合議制列した10月梶原景時結城朝光讒言する事件が起こる。これを知った御家人たちは激怒し、義盛や従弟三浦義村諸将66人の連署での梶原景時弾劾状を作成して大江広元提出した広元御家人間の抗争恐れて、しばらくこの弾劾状を留めていた。11月になって、それを知った義盛は御所広元会い貴殿関東爪牙耳目として、長年働いてきた。景時の権威恐れて諸将鬱憤隠し立てするのは、法に違えるではないか」と激しく詰問したやむなく広元弾劾状を頼家披露した。景時は失脚して鎌倉退去し、翌正治2年1200年正月討伐されて滅びている(梶原景時の変)。同年2月、景時の失脚によって、義盛は侍所別当復職した建仁3年1203年)、北条氏比企氏との間で抗争発生比企氏当主比企能員頼家愛妾嫡男一幡生んだ若狭局の父で、権勢振るい幕府実力者北条時政脅威となっていた。頼家が病に伏し危篤状態にあった9月2日時政は能員を謀殺比企一族一幡若狭局擁して小御所立て籠もった。北条氏尼御台北条政子の名で御家人比企氏討伐命じ侍所別当の義盛もこれに参加して比企氏攻め滅ぼされた(比企能員の変)。 9月5日危篤から回復した頼家我が子一幡と舅の比企氏一族の滅亡知って激怒し、義盛と仁田忠常宛てて北条氏討伐命じ御教書書き堀親家遣いさせ届けさせた。義盛は思慮の上で、この御教書北条時政届けた堀親家は捕えられて殺され仁田忠常北条氏によって滅ぼされた。 9月7日頼家将軍職奪われ出家させられ伊豆修善寺追放された。代わって弟の実朝将軍職就任し時政初代執権就任する元久2年1205年6月北条時政策謀により畠山重忠謀反疑いかけられ時政嫡男義時総大将とする討伐の軍が発せられ、義盛も一手大将軍として出陣幕府大軍前に重忠とその一族滅ぼされた(畠山重忠の乱)。その後時政実朝廃立画策する政子義時同意せずに失敗し失脚した牧氏事件)。代わって義時2代執権就任した承元3年1209年)、義盛は上総国司の職を内々に望む。将軍実朝はこれを聞き入れようとし政子相談するが、頼朝の頃より御家人受領となることは停止されていることを理由拒絶された。実際には「頼朝の例」は後白河院との対立による特殊なケースであり、実朝の頃には平賀朝雅八田知家のように、御家人受領となる例は既に存在していたため、これは政子による義盛への牽制、あるいは嫌がらせであった。義盛はなおも正式に大江広元通じて款状提出し治承寿永以来勲功述べ、「一生の余執」として上総国司を望んだ。しかし、願い聞き届けられず、承元5年1211年12月になって款状は義盛に差し戻されてしまった。

※この「御家人の乱」の解説は、「和田義盛」の解説の一部です。
「御家人の乱」を含む「和田義盛」の記事については、「和田義盛」の概要を参照ください。

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