尼御台とは? わかりやすく解説

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あま‐みだい【尼御台】

読み方:あまみだい

尼御台所(あまみだいどころ)」の略。


尼御台

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 07:15 UTC 版)

北条政子」の記事における「尼御台」の解説

長子頼家家督継ぎ政子出家して尼になり尼御台と呼ばれる三幡入内工作続けられたが、頼朝の死から2ヶ月ほどして三幡重病陥った政子鎌倉中の寺社命じて加持祈祷をさせ、後鳥羽上皇院宣まで出させて京の名医鎌倉呼び寄せる三幡医師処方した一時保ち直したように見えたが、容態急変して6月に僅か14歳死去した。 若い頼家による独裁御家人たちの反発起き正治2年1200年)に頼家専制抑制すべく大江広元梶原景時比企能員北条時政北条義時老臣による十三人の合議制定められた。だがこれについては13全員合議された例がなく、数名評議結果参考頼家最終的判断下す政治制度であり、頼家権力補完する機能果たしていたとする見解もある。 その後頼家安達景盛愛妾を奪う不祥事起きた景盛怨んでいると知らされ頼家は兵を発して討とうとする。政子調停のため景盛の邸に入り使者送って頼家強く諌めて景盛を討つならば、まずわたしに矢を射ろ」と申し送った政子景盛宥めて謀叛意思のない起請文を書かせ、一方で頼家重ねて訓戒して騒ぎ収めさせた。 頼家老臣との対立続き頼家が父に引き続いて重用していた梶原景時失脚して滅ぼされた(梶原景時の変)。『玉葉』(正治2年正月2日条)によると、他の武士たちに嫉まれ恨まれた景時は、頼家の弟実朝将軍立てようとする陰謀があると頼家報告し、他の武士たちと対決した言い負かされ讒言露見した結果一族とともに追放されてしまったという。『愚管抄』では景時滅亡と後の頼家殺害因果関係強く指摘している。 頼家遊興にふけり、ことに蹴鞠好んだ政子はこの蹴鞠狂い諌める頼家聞かない訴訟での失政続き御家人の不満が高まっていた。更に頼家乳母の夫の比企能員重用し、能員の娘は頼家長子一幡生んで権勢誇っていた。比企氏台頭北条氏にとって脅威であった建仁3年1203年)、頼家が病の床につき危篤陥った政子時政一幡実朝日本分割することを決める。これを不満に思う能員は病床頼家北条氏専断訴えた頼家もこれを知って怒り北条氏討伐命じた。これを障子越し聞いていた政子は、使者時政送り時政は策を講じて能員を謀殺政子の名で兵を起こして比企氏滅ぼしてしまった。一幡比企氏とともに死んだ比企能員の変)。頼家危篤から回復し比企氏滅亡一幡の死を知って激怒し時政討伐命じるが、既に主導権北条氏に完全に握られており、頼家政子の命で出家させられ将軍職奪われ伊豆修善寺幽閉されてしまう。頼家は翌元久元年1204年)に死去している。 だが比企氏滅亡頼家死に関して鎌倉幕府編纂書である『吾妻鏡』には明らかな曲筆見られ頼家悪評比企氏陰謀については北条氏による政治的作為考えられるため、そのまま鵜呑みには出来ない『愚管抄』によれば頼家大江広元屋敷滞在中に病が重くなったので自分から出家し、あとは全て子の一幡譲ろうとした。これでは比企能員全盛時代になると恐れた時政が能員を呼び出して謀殺し、同時に一幡殺そう軍勢差し向けた一幡はようやく母が抱いて逃げ延びたが、残る一族は皆討たれた。やがて回復した頼家はこれを聞いて激怒太刀を手に立ち上がったが、政子がこれを押さえ付け修禅寺押し込めてしまった。逃げ延び一幡捕らえられ北条義時の手勢に殺されたという。また頼家死について『愚管抄』によれば頼家義時送った手勢により入浴中襲撃され激しく抵抗した所を首に紐を巻き付け陰嚢をとって刺し殺されたという。 頼家代って将軍宣下受けたのは実朝で、政子の父の時政初代執権就任する時政とその妻の牧の方政権独占しようと図り政子時政の邸にいた実朝急ぎ連れ戻している。元久2年1205年時政牧の方実朝廃して女婿平賀朝雅将軍擁立しようと画策政子義時はこの陰謀阻止して時政出家させて伊豆追放した代って義時執権となった牧氏事件)。 実朝専横目立った頼家違って教養富んだ文人肌で朝廷重んじて公家政権との融和図った後鳥羽上皇もこれに期待して実朝優遇し昇進重ねさせた。しかし、公家政権との過度融和御家人たちの利益対立し、不満が募っていた。 政子後難を断つために頼家の子たちを仏門入れた。その中に鶴岡八幡宮別当となった公暁もいる。 建保6年1218年)、政子は病がちな実朝平癒願って熊野参詣し、京に滞在して後鳥羽上皇乳母権勢並びなき藤原兼子会談重ねたこの上洛で兼子の斡旋によって政子従三位叙されている(4月14日同年10月13日には従二位昇叙。)。『愚管抄』によれば、このとき政子は兼子と病弱で子がない実朝の後の将軍として後鳥羽上皇皇子東下させることを相談している。 同年12月実朝官職は更に昇進して右大臣に登った。義時大江広元実朝朝廷取り込まれ御家人たちから遊離することを恐れ諫言したが、実朝従わない建保7年1219年)、右大臣拝賀の式のために鶴岡八幡宮入った実朝は甥の公暁暗殺された。『承久記』によると、政子はこの悲報深く嘆き子供たちの中でただ一人残った大臣殿(実朝)を失いこれでもう終わりだと思いました。尼一人憂いの多いこの世生きねばならないのか。淵瀬身を投げようとさえ思い立ちました」と述懐している。

※この「尼御台」の解説は、「北条政子」の解説の一部です。
「尼御台」を含む「北条政子」の記事については、「北条政子」の概要を参照ください。

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