二俣川の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/27 10:19 UTC 版)
重忠は鎌倉に騒ぎがあると聞き6月19日に菅谷館を出発しており、22日午後、二俣川で討伐軍に遭遇した。重忠の弟長野重清は信濃国、六郎重宗は奥州へ行っており、重忠が率いていたのは二男の重秀、郎従本田次郎近常、乳母父の榛沢六郎成清以下130-40騎程度に過ぎなかった。今朝重保が殺された事、自分に追討軍が差し向けられた事を二俣川で初めて知った重忠は、館へ退くことはせず潔く戦う事が武士の本懐であるとして大軍を迎え撃つ決断を下す。そこへかつての旧友安達景盛と主従七騎が先陣を切って突入し、義時の大軍と少数の兵で応戦する重忠主従との激戦が4時間余り繰り広げられたのち、重忠は愛甲季隆の放った矢に討たれ、首級を取られた(享年42)。重忠の死を知った重秀以下は自害した(重秀・享年23)。『愚管抄』では重忠は自害したとしている。 23日午後2時頃、軍勢を鎌倉へ引き上げた義時は、合戦の様子を聞いた時政に対し、重忠の一族は出払っていて小勢であり、謀反の企ては虚報で、重忠は無実であった。その首を見ると涙を禁じ得ず、大変気の毒な事をしたと述べた。時政は黙って引き下がった。この日の夕方、鎌倉内で重忠の同族で討伐軍に加わっていた稲毛重成父子、榛谷重朝父子が重忠を陥れた首謀者として三浦義村らによって殺害された。 7月8日、少年の将軍源実朝に代わり、尼御台・北条政子の命により、畠山氏の所領は勲功として重忠を討った武士たちに与えられ、同20日にも政子の女房たちに重忠の遺領が与えられている。閏7月19日、この事件をきっかけに時政は失脚し、牧の方と共に子の義時・政子姉弟によって鎌倉を追放され、同26日、京にいた平賀朝雅は義時の命によって誅殺された(牧氏事件)。残された重忠の所領は時政の前妻の娘である重忠の妻に安堵され、妻は足利義純に再嫁して義純が畠山氏の名跡を継いだ事により、平姓秩父氏の畠山氏は滅亡した。
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