尼港の中国人と中国艦隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 08:50 UTC 版)
ニコラエフスクに住む中国人は、1919年1月の調査でおよそ2,314人であり、うち女性は15人にすぎず、男性の単身者が圧倒的に多かった。市内には、ある程度裕福な商人などもいて、中国人居留民会を組織していた。この自治会は、秩序を乱す者を市外へ追放したりもしていて、ロシア人指導者層から信頼を得ていた。 1919年9月、中華民国海軍の艦隊がアムール川に姿を現した。江享、利綏(旧ドイツ海軍「ファーターラント」, de)、利棲(旧ドイツ海軍「オッター」, de)、利川の砲艦4隻(利川は運送船ともいわれる)である。これは、ロシア内戦の混乱の中で、シベリア河川の航行権を拡張しようとする中国の試みだったが、コルチャーク政権はロシア政権の弱体化につけこむ行為として航行を認めなかった。ハバロフスクに向けて航行する中国艦隊は、白軍のアタマン・カルムイコフの砲撃を受けてニコラエフスクへ引き返し、やむなく越冬することになった。 中国艦隊のニコラエフスク入港までには、紆余曲折があった。入港直前の8月には内満州において日中両軍が衝突する寛城子事件が起きていた。当時、日本は北京政府と日支共同防敵軍事協定を結んでおり、中国は連合国の一員として、巡洋艦海容をウラジオストクに派遣していた。北京政府は、ロシア側が日本の艦船のアムール川航行を黙認しているにもかかわらず、中国船の航行を認めないことはアイグン条約に反するとして交渉していたが、ロシア側は認めず、中国側は、日本がロシアにそうさせているのではないか、と疑っていた。北京政府は、日、米、英、仏各国に、ロシア側との仲介を依頼したが、アメリカをのぞく各国の反応は冷淡であり、中国側は、日本がこの問題のイニシャティブをとっているとの確信を強めた。一方、ウラジオストクの日本全権は、この問題に日本が関係する意志がないことを中国側に明言し、中国艦隊のニコラエフスクでの越冬について、コルチャーク政権にとりなした。しかし、中国の新聞は日本の航行妨害を書き立てているとして、10月1日、北京の小幡酉吉公使は、北京政府に抗議している。 日本の航行妨害については、当時から中国の新聞記事になっていただけに、現在の中国でも事実として受けとめられ、極端な場合は、日本軍が中国艦隊を砲撃した、というような話になっていたりもする。 ニコラエフスクの華僑商業会議所は、食料の提供などで艦隊を援助していた。中国艦隊には、領事・張文換が乗り込んでおり、ニコラエフスク当局は砲艦の乗組員こそ歓迎しなかったものの領事の歓迎会は催した。また日本領事も歓迎会を開いて交流を持ち、パルチザンが街に迫るまでの関係は悪いものではなかった。 しかし、パルチザン部隊には数百人規模で中国人が加わっていた。1920年6月19日に中国領事は会談した津野一輔少将に中国人の過激派は300人であると説明している。事件後に尼港から脱出できたアメリカ人マキエフは600名であるとし、参謀本部編『西伯利出兵史』は900名としている。これについて『ニコラエフスクの破壊』の著者のロシア人ジャーナリスト・グートマン は「最下層階級の者達であって、社会的不適合者」とし、「中国人商人達は同胞パルチザンを疎んでいた」という。一方、 原暉之は、市内で編入された者ばかりではなく、「尼港周辺の鉱山労働者が加わっていたのではないか」としている。ニコラエフスク進軍に先だち、中国人パルチザンは赤軍宣伝部指導者のニーナ・レベジェワからロシア女性の引き渡しを受けることを約束され証文を交わしていたが、後日、中国領事の抗議によって反故にされることとなる。
※この「尼港の中国人と中国艦隊」の解説は、「尼港事件」の解説の一部です。
「尼港の中国人と中国艦隊」を含む「尼港事件」の記事については、「尼港事件」の概要を参照ください。
- 尼港の中国人と中国艦隊のページへのリンク