尼港在住の日本人と駐留日本軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 08:50 UTC 版)
「尼港事件」の記事における「尼港在住の日本人と駐留日本軍」の解説
ニコラエフスクにおける日本企業進出の中心は、1896年に島田元太郎が設立した島田商会であり、市内随一の商社となっていた。ロシア革命による経済混乱期には自らの肖像入り商品券を流通させるほどの信用が築かれていた。 ニコラエフスクにおける漁業を事業として成立させたのは日本人だったが、1901年に日本人の漁業は禁止され、1907年に調印された日露漁業協約においてもニコラエフスク近辺は対象からはずされたため、ロシア人と共同経営をしていた島田商会などをのぞき漁業関係者は撤退した。しかし海産物の交易は続き、第一次世界大戦による食糧不足でロシアの国内需要が急増するまで、ニコラエフスクの主要海産物であった鮭の主な輸出先は日本であり、居留邦人の数が多かったため領事館が設けられていた。 事件の一年前、1919年(大正8年)1月の調査によれば、ニコラエフスクの人口は12,248人で、そのうち日本人は291人だった。1919年(大正8年)6月調査(1920年6月16日の外務省公表)では、日本人は領事以下353人(男169人、女184人)となっている。職業の主な内訳は商業、大工、指物、裁縫業、理髪、金銀細工、錺職等であった。日本人で唯一ニコラエフスク市商業会議所の議員であった島田元太郎は別格として、他に大きな商店を営む日本人としては、米、小間物、木材などを扱う川口力太郎、雑貨商の川内多市、溝上乙吉、菓子パン製造業の百合野熊次郎などがいた。 なお、1918年1月調査の日本人数は499人であり、男女比はほぼ半々であった。職業についている女性としては、娼妓90人、家事被雇人(家政婦や乳母、女中として雇われている者)61人が主であり、残り100人の女性には既婚者が多いのではないかと思われる。 日本軍のニコラエフスク駐留は、1918年9月海軍陸戦隊の上陸に始まった。同月のうちに陸戦隊は、陸軍第12師団の一部と交代し、1919年5月第14師団の部隊が交代した。また海軍は、航行可能な夏期にはニコラエフスクを根拠に沿岸警備を行っていたため、無線電信隊を常駐させていた。
※この「尼港在住の日本人と駐留日本軍」の解説は、「尼港事件」の解説の一部です。
「尼港在住の日本人と駐留日本軍」を含む「尼港事件」の記事については、「尼港事件」の概要を参照ください。
- 尼港在住の日本人と駐留日本軍のページへのリンク