尼港開城の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 08:50 UTC 版)
チヌイラフ要塞を占領したパルチザンは、ニコラエフスクに砲撃を加えたが、それほどの被害はもたらさなかった。2月21日、砲撃は止まり、トリャピーツィンは再び使者を派遣して、「我々に町を引き渡さなければ、砲撃で破壊する」という手紙を、日本軍守備隊に届けた。 同じ21日、トリャピーツィンは、ハバロフスクの日本軍無線電信所宛にも、「ニコラエフスクの日本軍は通信手段を失っているので、われわれの無線電信仲介によって、そちらが戦闘停止を指示してもらいたい」と打診していた。この報を受けて、陸軍当局は、ウラジオストクの派遣軍に「ニコラエフスクにおける衝突は、パルチザンの攻撃に始まっているのだから、わが日本の守備隊は正当防衛をしているにすぎず、以降、日本軍と居留民に損害が出たならば、その責任はパルチザン側にある。パルチザンは攻撃を中止し、日本の守備隊が無線電信を使えるようにして、守備隊長石川少佐と、ハバロフスクの山田旅団長が直接連絡できるようにしてくれ」とパルチザンに回答するよう、指示した。 ニコラエフスクのロシア人指導者、市長と市参事会、地方議会の代表たちは、日本軍宛のトリャピーツィンの手紙を検討し、市民の命の安全と町の繁栄の保持を条件に、赤軍との交渉をはじめることを決めた。5日以来、外部とのすべての通信が遮断されていたため、他の都市の状況を知る手段もなく、それが知りたかったこともあって、ロマロフスキイ市議会議長、カルペンコ市長、ネムチノフ大尉が使者となり、トリャピーツィンが本営をかまえていたチヌイラフ要塞に向かった。トリャピーツィンは彼らを使者と認め、およそ以下のような条件を提示した。 白軍は武器と装備を日本軍に引き渡す。 軍隊と市民の指導者は、赤軍入城までその場にとどまる。 ニコラエフスクの住民にテロは行わない。資産と個人の安全は保障される。 赤軍入城までの市の防衛責任は、日本軍にある。赤軍入城後も日本軍は、居留民保護の任務を受け持つ。 市の指導者たちは、これを受け入れる方向で動いたが、白軍は「赤軍はかならず裏切って、合意はやぶられる」と主張し、開城を受け入れなかったので、最終的な判断は、日本軍にゆだねられた。 2月23日、パルチザンの無線を通して、白水師団長から守備隊長の石川少佐宛に、「パルチザン部隊が日本の居留民に害を加えたり、日本軍に対して攻撃的態度をとらないかぎり、これまでのいきさつにこだわらず、平和的解決に努めよ」との指令が届いた。石川少佐は海軍と相談し、24日から停戦に入り、28日、パルチザン部隊と講和開城の合意が成立した。
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