将軍御所襲撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 13:40 UTC 版)
5月2日(23日)、義盛の隣家の八田知重から、義盛の館に軍兵が集まっていると大江広元に通報があった。酒宴の最中であったが広元は急ぎ御所へ参じた。次いで、三浦義村から義時へ義盛挙兵の報告が入る。義村は弟の胤義と相談の上で御所の護衛を決断。この時、義時は囲碁を打っていたが、騒がずに烏帽子、装束を改めて御所へ参上、尼御台と御台(実朝夫人)を鶴岡八幡宮へ避難させ、大倉御所の警護を采配した。 申の刻(16時)、義盛ら和田一族は決起し、150騎を三手に分けて大倉御所の南門、義時邸、広元邸を襲撃した。義時邸、広元邸は留守の人数しかおらず、これを蹂躙した。 酉の刻(18時)、和田勢は大倉御所を囲んで一斉に攻めよせ、御所に火が放たれ、警護の武士と攻防になった。ここへ幕府側へ寝返った三浦義村も来援し、北条朝時らとともに御所を守った。和田勢で最も奮戦したのが、義盛の三男・朝比奈義秀で、惣門を打ち破って南庭に乱入して、幕府方の武士を次々に斬り倒した。『吾妻鏡』は義秀の奮戦を「神の如き壮力を明らかにし、彼に敵する軍士に死を免れる者無し」と称賛している。御所が炎上する中で実朝は辛うじて法華堂へ脱出した。 和田勢は日が暮れるまで戦うが、幕府方には新手が次々に加わり、矢種も尽き、人馬も疲労して退き始めた。足利義氏ら幕府軍は勝ちに乗じて攻めかかり、剛勇な義秀をはじめとする和田勢がこれを必死に防いで由比ヶ浜へ退却した。
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