将軍就任と幕府再興
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10月18日、義昭は朝廷から将軍宣下を受けて、室町幕府の第15代将軍に就任した。同時に従四位下、参議・左近衛権中将にも昇叙・任官された。 10月24日、義昭は信長を最大の功労者として認め、「天下武勇第一」と称えるとともに、足利家の家紋である桐紋と二引両の使用を許可した。また、幕閣と協議した末、信長に「室町殿御父(むろまちどのおんちち)」の称号を与えて報いた。義昭が信長に対して宛てた10月24日の自筆の感状では、「御父織田弾正忠(信長)殿」と宛て名したことは、ことに有名である。 さらに、信長を信長の武功に対し、その褒賞として高い栄典を授けようとしたが、信長はそのほとんどを謝絶し、斯波氏の家督や管領(または管領代)の地位も、副将軍への任命もうけなかった。結局、信長は弾正忠への正式な叙任、桐紋と二引両の使用許可のみを受け取った。また、信長は堺・草津・大津を自身の直轄地とすることを求めていることから、虚名より実利を選択したと考えられる。 将軍に就任した義昭は上洛戦での論功行賞を行い、所領の宛行・守護の補任を行った。摂津では、池田城主の池田勝正、伊丹城主の伊丹親興に本領を安堵し、さらには和田惟政に芥川山城を与え、彼ら3人を守護に補任し、摂津三守護とした。河内では、高屋城主の畠山高政と若江城主の三好義継を、それぞれ半国守護とした。大和では、多聞山城主の松永久秀に一国の支配が委ねられた。山城では、山岡景友を守護に補任した。これらの守護補任は三好氏による京都侵攻を阻止するため、軍事的に非常に大きな意味を持った。 義昭は二条昭実(二条晴良の嫡子)らに自身の偏諱を与えたほか、領地を安堵し、政権の安定を計った。幕府の治世の実務には、兄の義輝と同じく摂津晴門を政所執事に起用し、義昭と行動を供にしていた奉行衆も職務に復帰して幕府の機能を再興した。また、義昭は伊勢氏当主も義栄に出仕した伊勢貞為を廃し、弟の貞興に代えさせて仕えさせた。また、当時の記録(『言継卿記』・『細川両家記』など)には、義昭期の奉公衆として三淵藤英・細川藤孝・和田惟政・上野秀政・曽我助乗・伊丹親興・池田勝正の名前が確認できる。さらに、兄の義輝が持っていた山城の御料所も掌握した。 このように幕府の再興を見て、島津義久は喜入季久を上洛させて黄金100両を献上して祝意を表したほか、相良義陽や毛利元就らも料所の進上を行っている。 11月、義昭は近衛前久を、兄・義輝の殺害及び足利義栄の将軍襲職に便宜を働いた容疑で追放し、二条晴良を関白に復職させた。他方、近衛家は義昭の生母であった慶寿院以来、将軍の御台所を輩出してきたが、前久追放による関係の冷却化によって正室を迎えることが出来なくなった。
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