御室撮影所を継承
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1932年(昭和7年)11月、高村正次が映画製作を断念した東亜キネマを買収、東活映画社の社長を辞任した南喜三郎とともに設立したのが、この「宝塚キネマ興行」である。「御室撮影所」を「宝塚キネマ撮影所」と改称して稼動させた。東亜キネマ、同社の製作を代行した東活映画社、そして正映マキノキネマの残党の受け皿となった。設立第1作は東亜・東活系の堀江大生監督の『敵討愛慾行』で、同年12月15日に公開された。同年内に5本を公開した。 同社の撮影所は、1925年(大正14年)11月3日に開業した京都電燈(現在の京福電気鉄道北野線)の妙心寺駅の北側、大通り(現在の京都府道101号銀閣寺宇多野線)の北側に挟まれた一帯であった。 「御室撮影所」を参照 1933年(昭和8年)7月、賃金未払いが起きて、経営者と従業員が対立する。7月および8月の生産本数が如実に減り、映画館への作品の供給が滞る。1934年(昭和9年)1月14日、久保文憲 監督の『霧の地下道』を「大阪パークキネマ」で、後藤岱山監督の『大利根の朝霧』と、そしてついに監督となった高村の初監督作『片仮名仁義』の二本立てを「大阪敷島倶楽部」で公開したのが同社の最終作品となった。25万円(当時)の負債のため、同年1月21日をもって休業に入る。
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