御室撮影所を継承とは? わかりやすく解説

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御室撮影所を継承

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/08 15:58 UTC 版)

宝塚キネマ興行」の記事における「御室撮影所を継承」の解説

1932年昭和7年11月高村正次映画製作断念した東亜キネマ買収東活映画社社長辞任した喜三郎とともに設立したのが、この「宝塚キネマ興行」である。「御室撮影所」を「宝塚キネマ撮影所」と改称し稼動させた。東亜キネマ同社の製作を代行した東活映画社、そして正映マキノキネマ残党受け皿となった設立第1作東亜東活系の堀江大生監督の『敵討愛慾行』で、同年12月15日公開された。同年内に5本を公開した同社撮影所は、1925年大正14年11月3日開業した京都電燈現在の京福電気鉄道北野線)の妙心寺駅北側大通り現在の京都府道101号銀閣寺宇多野線)の北側挟まれ一帯であった。 「御室撮影所」を参照 1933年昭和8年7月賃金未払い起きて経営者従業員対立する7月および8月生産本数如実に減り映画館への作品供給滞る1934年昭和9年1月14日久保文憲 監督の『地下道』を「大阪パークキネマ」で、後藤岱山監督の『大利根朝霧』と、そしてついに監督となった高村の初監督作片仮名仁義』の二本立てを「大阪敷島倶楽部」で公開したのが同社最終作品となった25万円当時)の負債のため、同年1月21日をもって休業に入る。

※この「御室撮影所を継承」の解説は、「宝塚キネマ興行」の解説の一部です。
「御室撮影所を継承」を含む「宝塚キネマ興行」の記事については、「宝塚キネマ興行」の概要を参照ください。

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