江戸時代中期から後期の細倉鉱山
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「細倉鉱山」の記事における「江戸時代中期から後期の細倉鉱山」の解説
18世紀の江戸時代中期以降、細倉鉱山は仙台藩内最大の鉛を産出する鉱山となった。18世紀中期の延享年間の古文書では細倉鉱山は他の鉱山と並ぶ形の記述であるが、これが18世紀末の寛政年間の古文書になると細倉鉛山は他の鉱山と別立ての記述となり、28もの鉱脈があるとの記録が残っており、盛んに鉛を採掘していたことが伺われる。そして19世紀前半の文化、文政期になると細倉鉱山は更に発展を見せ、古文書上で紹介されている鉱脈は30を越えた。鉱山が隆盛を見せる中、1808年(文化5年)には祭神として鉱山の守り神とされた大山祇神、金山彦神、金山姫神を祀る細倉山神社が創建された。 江戸時代を通じて細倉鉱山は山師が採掘、精錬を行い、生産された鉛などを仙台藩が定価で買い上げ、仙台藩は買い上げた鉛を市場で販売し利ざやを得ていた。江戸初期から中期にかけては零細な山師たちがそれぞれ採掘、精錬を担っていたが、中期以後、細倉鉱山の鉛の生産力が上がるにつれて零細な山師の淘汰が進み、山師代表ともいうべき惣山師立が採掘、精錬を行う技術者たちを束ねるようになってきた。また惣山師立は仙台藩から鉛を買い付ける商人たちから資金の援助を受け、更に経営規模を拡大していった。、1824年(文政7年)には、鉛の精錬にこれまでの焼吹法から新たな精錬法である生吹法が採用されるようになった。生吹法は精錬時に鉄を加えることによって精錬時に消費する木炭や薪を大幅に減少させることに成功し、鉛の生産量増加に大きく貢献した。また生吹法は鉛の精錬に日本で初めて鉄を使用したもので、技術的に見ても大きな進歩であった。 当時、鉛は屋根瓦、鉄砲玉や白粉など、鉛そのものの需要もあったが、何といっても灰吹法によって粗銅から金や銀を回収するために大量の鉛が必要とされた。これは溶融した粗銅に鉛を加えて、精銅と金銀を含む貴鉛を分離するもので南蛮吹と呼ばれる。細倉山神社の水盤の中には、1816年(文化13年)に大坂銅吹屋の銅精錬業者である吹屋から奉納されたものもあって、細倉鉱山の鉛が大坂銅吹屋で利用されたことが明らかになっている。細倉鉱山で産出された鉛は、仙台に送られるものの他に、藩の廻米を江戸へ輸送する御用船の積荷の一つとして石巻から出荷されており、大坂へは江戸から更に転送されたものと考えられる。 細倉鉱山は奥羽山脈山麓の鉱山であったから、産出された鉛の輸送には多大な労力がかかった。江戸時代においては輸送は人馬の力に頼らざるを得ず、輸送は主に鉱山のある鶯沢村の農民が徴用されていたが、農民たちに支払われる運賃が安いとトラブルになった記録も残っている。また鉱山の経営には精錬用に必要である木炭や薪、生吹法で使用される鉛精錬用の鉄、そして鉱山で働く労働者たちの食料などを入手しなければならなかった。仙台藩では山林は基本的に藩有地になっており、木炭や薪は藩有地である山林から入手できたが、地域の人々もまた山林を利用しており、鉱山が発展して木炭や薪の使用量が増加するにつれて地域住民と鉱山側との対立も発生した。食料については仙台藩が農民から買い上げた余剰米である買米を払い下げたり、藩の協力を仰ぎながら栗原郡内から供出を求めるなどして確保した。生吹法に用いる鉄は、北上山地で生産される砂鉄から精錬された鉄を運び使用したが、そのため鉄の輸送も盛んに行われるようになった。
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