江戸時代中期から後期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 05:04 UTC 版)
宝永年間・享保年間の頃から、事の事変を知った庄内藩では民生安定のため砂防植林を進めた。砂防植林を進めるにあたり、庄内藩は1郷につき1人から2人の指導的人材に「植付役」という役職を与え指揮をとらせた。最上川より北側(川北)では、来生彦左衛門(1659?1748)、本間光丘(1732-1801)、佐藤藤蔵(1712-1797)などの商人や、藩命で入植した農民が区域を分割して土地を預かり、私財を投じて植林に尽力した。来生彦左衛門は遊佐郷天神新田村に生まれ、ウルシなどを植えすでに砂丘地における植林を始めていた越後・村上へ1704年に赴き、クロマツ等の種子を持ち帰っている。苗木の養成方法を研究しながら最上川河口から吹浦まで植林し、庄内砂丘地植林の先駆者と言われている。本間光丘は酒田西北部を、佐藤藤蔵は藤崎地区を、曽根原六蔵は菅里地区を植林している。最上川より南側(川南)では、植付役の佐藤太郎右衛門が植林のために移住者を募って新村を興し、植林と農地開拓を進めた佐藤太郎右衛門は、最上川以南の砂丘地の植林を指導する一方、赤川下流の治水事業も行って新田も拓き、農業の発展にも貢献した。この最上川を挟んだ南北の植林の進め方の違いは、林帯配置の違いとなって今でも確認できる。しかし、庄内特有の強風と日本海からの塩分、それに強烈な乾燥という、生き物には厳しい砂丘に根付く植物は少なく、当初はあらゆる樹木や草本が植えられたが、長い試行錯誤の末、まず砂地に強い草を植えて砂丘の表面を落ち着かせ、次にネムノキやグミなどの砂地に強く地力を肥やす潅木を植え、その後にクロマツを植林するという方法がとられた。またこのように手順を踏んでの植林であるため、最初は東部砂丘の安定から始まり、その後中部砂丘、西部と順次範囲を広げられ、最終的には昭和まで続くことになる。川北では植林区域を個人に分割したため、植林成功後は佐藤藤蔵家や曽根原六蔵家のように永代預り地となったところ、あるいは本間家植林地のように明確に私有地となったところもある。本間家はこれにより日本有数の大地主となったが、私利私欲に走らず公益的な精神に基づいて行われ、多くの雇用も創出して地域の経済を支えた。このことに人々は感謝し、庄内では今でも敬愛を込めて本間様と呼ばれている。川南では佐藤太郎右衛門家の指導により、集落の各戸で区域を均等に分割し、宅地田畑に接続した森林を「地続山」として藩に申請し、それについて個々が植林や管理の義務と燃料採取などの権利を得ていたため、佐藤太郎右衛門自身を含めて、大地主となった者はいなかった。
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