江戸時代の高麗町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 14:25 UTC 版)
従来居住していた高麗人が苗代川村に移された後は、甲突川沿いに150坪あまりの武家屋敷が作られた。天保年間には鹿児島城下の武家屋敷は甲突川のさらに南に広がり高麗町あたりに居住しているものも多数いたという。また高麗町郷中が置かれており、郷中教育が行われていた。 明治時代初期には鹿児島府下のうちであった。明治初期の高麗町は平民に比べ士族が多く居住しており、武家町であった。1881年(明治14年)には戸長役場が高麗町に設置されていた。
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