江戸時代の阿仁銅山と平賀源内
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「阿仁鉱山」の記事における「江戸時代の阿仁銅山と平賀源内」の解説
阿仁鉱山は、佐竹氏の開発によって当初金銀を産出し、17世紀には銅山に移行して幕末に至るまで採鉱がつづけられた。秋田藩の産銅は幕府御用銅の4割弱、多いときには5割をこえたが、長崎輸出銅の主要部分を占め、また銭貨鋳造の原料としても重要なものであった。阿仁の銅には米代川の舟運が利用された。多数の鉱山労働者によって鉱山町が形成され、採坑普請用の土木資材や燃料としての薪炭も不可欠な存在であり、阿仁近辺では一時森林乱伐の弊害がもたらされている。1740年(元文5年)、秋田藩は阿仁に銅山掛山(かかりやま)を設置し、銅山奉行の支配とした。 阿仁銅山では、鉱山の採掘から「荒銅」の精錬までをおこなった。阿仁銅山のうち、二ノ又・板木沢ついで萱草の銅に含銀量が多く、前二者は大坂での相場が高かった。また、扇平・三枚の銅は含銀量こそは少ないものの高品質であったといわれている。 1716年(享保元年)には産銅日本一となっている。しかし、その後、秋田藩の銅山経営はふるわなくなり、1764年(宝暦14年)、秋田藩は突如江戸幕府より阿仁銅山と麓村落の1万石の上知(知行召し上げ)を通達された。これは、長崎輸出銅の大部分を占めた銅山の産額が激減したため、幕府は佐竹氏に代替地を与える代わりに銅山の直轄化によって増産を企図したのであった。これに対して秋田藩は損失の大きさに驚愕し、ときの老中であった田沼意次にはたらきかけ、交渉によってようやく上知撤回に成功した。 1773年(安永2年)、秋田藩は幕府より1万両を借り入れ、幕府直営鉱山の開発に実績のあった平賀源内を招聘し、銅山経営の立て直しを図った。同年、平賀源内は鉱山士の吉田理兵衛とともに阿仁鉱山を訪れた。石見銀山の水抜き工事を行っていた吉田は、阿仁銅の精錬法を聞き、このままでは銅のなかにわずかに金が残されていることを指摘し、秋田の銅が大坂で珍重されるのはこのためであるとした。 平賀源内と吉田は阿仁に1か月(3か月説もある)滞在し、「山下流の銀絞り法」を伝授したが、それほど効果はなかったという。「平賀源内秋田資料」には吉田は誠実であるため評判がよく、平賀源内は天才肌で常人が近づきがたかったので評判がすこぶる悪かったのではないかとしている。平賀源内は阿仁で「水無焼」という陶器づくりを指導した。現在2枚の皿が現存している。 上述のとおり、阿仁の銅は概して含銀量も多く高品質として知られていたが、銅山における荒銅精錬までの段階では、銅鉱にふくまれる銀を分離させるということはしなかった。荒銅を鉛を焚き合わせ(これを「合吹」と称す)、融点や比重の相違から銅と銀・鉛の合金を分離して(これを「南蛮絞」という)、さらに、銀・鉛の合金を灰のうえで溶解させたうえで鉛だけを灰にしみ込ませて銀のみを抽出する(これを「灰吹」という)という一連の精錬技術は、大坂銅吹屋がほぼ独占する状態にあった。 しかし、秋田藩では平賀源内の鉱山技術指導ののち、大阪から久保田藩に縁がある大阪の技術者を呼び、安永3年(1774年)には米代川支流阿仁川・藤琴川の合流点である山本郡二ツ井の地に加護山製錬所の銀吹分所、鉛吹所を開鉱(銅の製錬はそれ以前からあった)。それによって、自領内で荒銅から銀の精錬までが可能となったのである。
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