江戸時代の飛脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 07:35 UTC 版)
江戸時代中期〜明治初年における民間の飛脚問屋は、基本的には決められた「定日」に荷物を集荷すると、荷物監督者である「宰領」が主要街道の各宿場の伝馬制度を利用して人馬を変えながらリレー輸送した。荷物を付けた馬と馬方を引き連れた宰領は乗馬し、防犯のため長脇差を帯刀した。宿泊は指定の「飛脚宿」に泊った。途中、人馬継立の渋滞、現金盗難、河川増水(川止め)、地震遭遇など不慮の人災・天災により延着・不着・紛失もあった。高額の金を支払い、一件のために発したのを「仕立飛脚」といい、また早便として「六日限」「七日限」などの種類があったが、遅れがちであった。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}飛脚問屋が特権にこだわったのは、延着、賃銭(値上げ)などの課題を抱えていたからだと思われる[独自研究?]。 『守貞謾稿』は当時のシステムを具体的に説明している。江戸 - 京坂を結ぶ飛脚のうち最低料金のものを「並便り」と呼び、日数の保証はなかった。昼間のみの運行であり、また駅馬の閑暇を利用して運行する関係上、片道概ね30日を要したという。これより急を要する場合、所要10日の「十日限」(とおかぎり)、6日の「六日限」あるいは「早便り」の利用となったが、東海道の通信量増加と共に各宿での滞貨が増大、それぞれ2〜3日の延着が通例になったという。そこで江戸 - 上方を6日間で走ることを約した定飛脚が登場し、「定六」または「正六」と呼んだ。更に火急の書状では「四日限仕立飛脚」が組まれることもあり、料金4両を要したという。これらの飛脚に便乗させる形で書簡を託すことも可能であり、「差込」(さしこみ)と称した。運賃2〜3分という。こうした便乗は概ね世界的な傾向であった[独自研究?]。 江戸時代の日本の飛脚については『駅逓誌稿』、日本通運『社史』などが基本文献である。研究論文に関しては藤村潤一郎による論文・翻刻の業績数が群を抜く。国内外の通信の歴史については星名定雄『情報と通信の文化史』(法政大学出版局)がある。日本の飛脚研究は、近年の高度情報社会を背景に情報史の領域で扱われる傾向にある[独自研究?]。
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