江戸時代の鎖国と漁港化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 22:55 UTC 版)
江戸時代には薩摩国河邊郡坊泊郷(外城)のうちであり、坊津村とも坊村とも呼ばれた。明治2年に坊泊、久志秋目、鹿籠の3郷が合併し南方郷のうちとなった。「天保郷帳」には坊津村として539石余、「旧高旧領取調帳」には坊村として157石余と記載されていた。伊能忠敬が著した「九州東海辺沿海村順」によると家数は247軒あり、その内本村は122軒、坊津浦87軒、栗野38軒であり、その他に42軒があったと記されている。 坊津は薩摩藩でも特に重要な港であり、港の監視を行う津口番所が現在の坊津歴史資料センター輝津館付近に設置されていた。津口番所では異国船や特に薩摩藩が禁制としていた一向宗教徒とキリスト教徒の取締りが重点的に行われていた。一向宗教徒は上陸を禁じられ、キリスト教徒は鹿児島城下に送られたという。 また、前述のとおり坊津は古くから海外との交易が盛んであり、元和7年(1621年)成立の中国の兵法書『武備志』において、坊津は伊勢国安濃郡(現在の三重県津市)の安濃津、筑前国(現在の福岡県福岡市)の博多津と並び日本三津の一つとして挙げられ、同書中に「日本に三津坊津を総路と為す」と記載される程に中国においても知れ渡っている港であったという。 寛永12年の鎖国令以降は薩摩藩の密貿易の拠点として栄えた。鎖国制度が取られて以降も享保年間に発生した「享保の唐物崩れ」と呼ばれる幕府の一斉摘発まで交易による賑わいは続いたという。「享保の唐物崩れ」により海外との交易が落ち込んだ坊津は漁港となり、カツオ漁を中心とした漁村となった。 浦町である坊浦は西を寺ケ崎、東を鶴ケ崎に囲まれる港であり、御船奉行の指揮を受けた浦役が治めていた。
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