江戸時代の関連地震
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「安政の大地震」も参照 江戸時代には南海トラフ沿いが震源域と考えられている巨大地震として、この他に宝永4年(1707年)の宝永地震の記録がある。宝永地震と安政地震の再来間隔147年は従来の定説では、1361年正平地震以降の南海トラフ巨大地震の平均再来間隔117年より長いと考えられてきたが、安政地震については「宝永地震の後始末地震」だった可能性も考えられ、この宝永地震後の再来間隔は南海トラフ沿いの巨大地震としてはむしろ短い部類になるとの見解もある。 慶長9年(1605年)に起きた慶長地震も、かつては震源域が東海道・南海道に亘り、南海トラフ沿いの津波地震と考えられていた。慶長地震の震源域には諸説あり、南海トラフ沿いの巨大地震とするには多くの疑問点が残り、南海トラフ沿いの地震ではなく例えば伊豆・小笠原海溝沿い、あるいは遠地津波の可能性も否定できないとする見解も出されている。 安政南海地震の2日後には豊予海峡でM 7.4の豊予海峡地震が発生。また翌年には安政江戸地震(M 6.9-7.4)が起きた。本地震や安政東海地震は安政江戸地震と合わせて「安政三大地震」とも呼ばれ、伊賀上野地震から1858年飛越地震まで安政年間に連発した一連の大地震を安政の大地震とも呼ぶ。
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江戸時代の関連地震
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 21:12 UTC 版)
「安政の大地震」も参照 江戸時代には南海トラフ沿いを震源とする巨大地震として、この他に宝永4年(1707年)の宝永地震の記録がある。また、安政地震については「宝永地震の後始末地震」だった可能性も考えられ、この宝永地震後の再来間隔147年は南海トラフ沿いの巨大地震としてはむしろ短い部類になるとの見解もある。 慶長9年(1605年)に起きた慶長地震もかつては震源域が東海道・南海道に亘り、南海トラフ沿いの津波地震と考えられていた。慶長地震の震源域には諸説あり、南海トラフ沿いの巨大地震とするには多くの疑問点が残り、南海トラフ沿いの地震ではなく例えば伊豆・小笠原海溝沿い、あるいは遠地津波の可能性もあるとする見解も出されている。 安政南海地震の2日後には豊予海峡でM 7.4程度の豊予海峡地震が発生。また翌年には安政江戸地震 (M 6.9-7.1) が起きた。本地震や安政南海地震は安政江戸地震と合わせて「安政三大地震」とも呼ばれ、伊賀上野地震から1858年飛越地震までの安政年間に多発した一連の大地震を安政の大地震とも呼ぶ。 識字文化が高度に発達した近世末において日本の2/3が被災したため、この地震に関する古記録は歴史地震としては非常に多く残されている。安政の頃になると日記に加えて手紙などにも地震の記述が現れるようになり、被災時の人々の詳細な行動記録まで残るようになる。特に、寺院の記録は均質で信頼性のおけるデータとして震度分布の研究などに利用されている。
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