江戸時代中後期
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9代治憲(鷹山)は、藩政改革で財政の再建を果たした。なお治憲の隠居所である餐霞館は三の丸にあるが、これは支候御殿を転用したもので、治憲死去後に支候御殿に戻る。次代の上杉治広も蘭学医術など学問を奨励するなど、文化7年(1810年)に「政治向き格別に行届き、領内治め方よろし」等として表彰。続く上杉斉定も天保7年(1836年)に表彰されている。 上杉斉憲の代にも幕府から表彰され、18万7千石に加増された。斉憲は京都で西国雄藩とも交わり、文久3年(1863年)には徳川家茂の京都上洛に御供して二条城警護にあたる。
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江戸時代中後期
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天明3年7月8日(1783年8月5日)に浅間山が大噴火し、火砕流と火砕泥流、および吾妻川と利根川の洪水が発生し死者1,000人超の大災害が起きた。河床は上昇し中条堤を中心とした治水システムは機能しなくなり、当時の土木技術では大規模な浚渫する抜本的な対策を取ることはできなかったため、江戸幕府は当面の対策として、酒巻・瀬戸井狭窄部下流右岸の堤防を徹底強化し赤堀川を拡幅、江戸川の流頭に棒出しと呼ばれる突堤を設け、18間(33メートル)を限度に川幅を狭め流入量の制限を行った。川幅を狭めた分流速が増し船の航行には不便になるが、洪水の流入を抑えるとともに、土砂流入を防ぎ浅瀬の形成を防止し、舟運機能はせめて確保したいという苦肉の策であった。 これにより行き場を失った水は、逆川から銚子方面へあふれ出し、現在の利根川下流域の水害を深刻化させることとなった。また、浅瀬の被害は深刻化し、艀下船を用いても通行が困難になる場合もあった。パナマ運河工事の土量を越える、大規模な浚渫が実施され、浅間山大噴火の影響が利根川全域から取り除かれたのは、戦後も高度成長期以降のことである。
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江戸時代中・後期
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度重なる災害に加え、大坂加番などを課せられたことで、藩財政は江戸時代中期頃になると火の車となった。6代藩主分部光命の時代には、延享4年(1747年)と寛延2年(1749年)の2度にわたり大溝城下が大火に見舞われた。 天明5年(1785年)に藩主となった第8代・分部光実は「中興の英主」とも評される。光実は藩校「修身堂」を開設するとともに、財政改革を断行した。ただし光実の財政改革については「効果は限られたもの」といった評価がある。 第11代藩主・分部光貞のときに幕末期の動乱を迎えた。文久3年(1863年)の八月十八日の政変において、光貞は自ら兵を率いて京都の守備に当たった。光貞は版籍奉還の翌年に死去し、子の分部光謙が9歳で知藩事を継ぐ。しかし藩財政は極めて悪化しており、大溝藩は明治4年(1871年)7月の廃藩置県に先立って廃藩願いを出して受理された。大溝藩は廃藩となり、大津県に編入された。 なお、光謙はその後競馬に傾倒して家産を浪費し、爵位(子爵)を返上するなど浮沈の多い人生を送った。後半生は旧領大溝に暮らし、昭和19年(1944年)11月29日に死去した。幕末・明治維新期を生きた大名(藩知事を含んだ場合)としては最後まで生きた人物である。
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