江戸時代中後期:男色文化、余り目立たない時代へとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 江戸時代中後期:男色文化、余り目立たない時代への意味・解説 

江戸時代中後期:男色文化、余り目立たない時代へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 07:34 UTC 版)

日本における同性愛」の記事における「江戸時代中後期:男色文化、余り目立たない時代へ」の解説

江戸時代中頃になると、君主への忠誠よりも男色相手との関係を大切にしたり、美少年をめぐる刃傷事件などトラブル頻発したため、風紀を乱すものとして問題視されるうになる姫路藩池田光政1609年-1682年)は男色行為厳禁として、違反した家臣領内追放処している。米沢藩の上治憲が安永4年1775年)に男色衆道称し厳重な取り締まり命じていたり、江戸幕府でも享保の改革寛政の改革天保の改革などで徹底的な風俗取り締まりが行われ、天保13年1842年)に陰間茶屋禁止された。幕末には公然と次第行われなくなっていった。 ただこの時代にも、既に触れた武士道における衆道心得説いた葉隠』(1716年頃)が出されているほか、町人文化文学でも男色描かれていた。例え平賀源内は『の園』『男色細見』(1775年)などの陰間茶屋案内書や、『根無草/根南志具佐』(閻魔大王美少年愛好家として描く)や『乱菊穴捜』といった男色小説書いている。上田秋成の『雨月物語』(1768年序)にも男色に関する二編登場し十返舎一九東海道中膝栗毛』(1802年〜)には同性愛関係にあった2人の主人公登場し喜多八弥次郎兵衛馴染陰間であったことが述べられている。葛飾北斎1760年-1849年)や歌川広重1797年-1858年)らも浮世絵やその一種である春画などで同性愛描いた作品残している。また歌舞伎白浪五人男1862年)の名乗り場面に、弁天小僧が寺の稚児であった前歴舞台で物語場面盛り込まれていた。これらのうち雨月物語東海道中膝栗毛と、江戸時代前期好色一代男英訳されている。風俗としての男色幕末まで絶えことなく続き隅田川若衆を侍らせた船遊びをする光景維新直前にもみられた。

※この「江戸時代中後期:男色文化、余り目立たない時代へ」の解説は、「日本における同性愛」の解説の一部です。
「江戸時代中後期:男色文化、余り目立たない時代へ」を含む「日本における同性愛」の記事については、「日本における同性愛」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「江戸時代中後期:男色文化、余り目立たない時代へ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「江戸時代中後期:男色文化、余り目立たない時代へ」の関連用語

江戸時代中後期:男色文化、余り目立たない時代へのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



江戸時代中後期:男色文化、余り目立たない時代へのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの日本における同性愛 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS