江戸時代中後期:男色文化、余り目立たない時代へ
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江戸時代中頃になると、君主への忠誠よりも男色相手との関係を大切にしたり、美少年をめぐる刃傷事件などのトラブルが頻発したため、風紀を乱すものとして問題視されるようになる。姫路藩主池田光政(1609年-1682年)は男色行為厳禁として、違反した家臣を領内追放に処している。米沢藩の上杉治憲が安永4年(1775年)に男色を衆道と称し、厳重な取り締まりを命じていたり、江戸幕府でも享保の改革・寛政の改革・天保の改革などで徹底的な風俗の取り締まりが行われ、天保13年(1842年)に陰間茶屋は禁止された。幕末には公然とは次第に行われなくなっていった。 ただこの時代にも、既に触れた武士道における衆道の心得を説いた『葉隠』(1716年頃)が出されているほか、町人文化や文学でも男色は描かれていた。例えば平賀源内は『菊の園』『男色細見』(1775年)などの陰間茶屋案内書や、『根無草/根南志具佐』(閻魔大王を美少年愛好家として描く)や『乱菊穴捜』といった男色小説を書いている。上田秋成の『雨月物語』(1768年序)にも男色に関する二編が登場し、十返舎一九『東海道中膝栗毛』(1802年〜)には同性愛関係にあった2人の主人公が登場し、喜多八は弥次郎兵衛の馴染の陰間であったことが述べられている。葛飾北斎(1760年-1849年)や歌川広重(1797年-1858年)らも浮世絵やその一種である春画などで同性愛を描いた作品を残している。また歌舞伎の白浪五人男(1862年)の名乗りの場面に、弁天小僧が寺の稚児であった前歴を舞台で物語る場面が盛り込まれていた。これらのうち雨月物語、東海道中膝栗毛と、江戸時代前期の好色一代男は英訳されている。風俗としての男色は幕末まで絶えることなく続き、隅田川で若衆を侍らせた船遊びをする光景が維新直前にもみられた。
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