昭和以前
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「関屋」巻奥書によれば、室町時代の公卿である飛鳥井雅康(1436年(永享8年)‐1509年(永正6年))が守護大名大内政弘の求めに応じて1481年(文明13年)に作成したとされる。応仁の乱によって京都が戦乱の地となり古典籍を含む多くの文化財が失われた中で、当時都から遠く離れた山口の地を拠点として西国一の守護大名であった大内氏は、歴代当主が文化面でも拠点である山口が「西の京」と呼ばれるのにふさわしくなるべく活動していた。政弘は大内氏歴代当主の中でも最も多くの蔵書を確認できる人物であり、三条西実隆や飛鳥井雅康などに書写を依頼して「山口殿中文庫」、「大内文庫」とも呼ばれる蔵書の充実を図っていた。大島本の「関屋」巻奥書に見える源氏物語写本の作成も、その一環であると考えられる。 但し近年、一部の大島本に見える「宮河」なる印の有無と綴穴の多寡が相関性を有することから、現存本は、複数の祐筆によって、雅康本「関屋」巻を含む吉見家架蔵の諸本(「宮河」印を有する19 帖、他の34帖)をそれぞれ書写し、揃いとした写本群であるという見解が提出された。厳密にいえば、雅康本の転写と確言し得るのは「関屋」巻だけで、他の52帖の書本の素性は不明と言うことになる。 現存本53帖は、「夢浮橋」巻奥書によって、1564年(永禄7年)頃、大内氏の家臣であり、大内氏が滅びた後毛利氏の家臣となった石見の豪族吉見氏の当主吉見正頼が揃えた、本来、54帖の写本であると記されている。 いっぽう、本写本が雅康自筆本であるとする池田亀鑑説を前提として、大内氏から吉見氏の元に移った経緯について、大内政弘の子大内義興と吉見正頼の娘大宮姫との婚儀の際に嫁入り道具として贈られたとする説もある。 ただし、本写本の書誌から確実なことは、吉見正頼が毛利と尼子の和議調停に奔走したことで知られる聖護院第25代門跡である道増(1508年(永正5年)-1571年(元亀2年))とその甥道澄(1544年(天文13年)-1608年(慶長13年))の書写による桐壺の巻と夢浮橋の巻を加え、大内政弘旧蔵一条兼良筆河内本で本文を校合し、兼良の子・良鎮大僧正の注記を加えたと言う両巻奥書に記された事実のみである。 その後、昭和初めまでの来歴は一切不明とされてきたが、上原作和は、1930年(昭和5年)頃までこの写本を保有していた、佐渡貝塚田中家を特定したとして、その前所有者を長州藩毛利家、さらにその前所有者を吉見氏を継承した大野毛利家と遡及的にこれを推定している。また、大島本が佐渡に渡った時期は、『海舟日記』から毛利家の家財整理がなされた1890年(明治23年)とし、この家財整理は勝海舟が主導し、最後の佐渡奉行鈴木重嶺が田中家に周旋したと類推した。これは、鈴木重嶺の短歌結社「詞林」同人が、重嶺の没後、佐佐木信綱「心の花」に合流したほどの歌縁を根拠とする。大島本の佐渡時代の所有者・貝塚田中家は医業、薬業のかたわら和歌をたしなみ、当主・田中穂積、義兄・加藤瑞軒が鈴木重嶺、佐佐木信綱に師事していることによる類推であると言う。ちなみに、のちの所有者・大島雅太郎も「心の花」 同人であった。 いっぽう、藤本孝一は、本写本の全体にわたって、複数の異なる筆跡によるおびただしい本文の補訂の後が見られることから、死蔵されることなく読まれ続けていたと考えている。
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昭和以前
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保延4年(1138年、平安時代後期)針江村が属する木津荘が延暦寺の千僧供領(せんそうくりょう、せんぞうぐりょう)となる。 日吉二宮神社が勧請・創建される。 永仁2年(1294年、鎌倉時代中期):針江の石津寺に鎮守社(現・日吉神社の前身)が創建される。石津寺はのちに荒廃し、饗庭村にあって木津荘の惣社であった波爾布神社の支配を受け、「石津十禅師」と称する。なお、近現代において石津寺は日吉神社の境内の一角に名残をとどめる小寺となっている。 応永15年(1408年、室町時代前期):針江の日吉神社と饗庭の大國主神社との間で氏子の争議が起こる。 永正8年(1511年、室町時代後期・戦国時代中期):大國主神社の『永正八年御宮年中行事』などに見える領地区分は、延暦寺千僧供領、近江国高島郡(たかしまこおり、たかしまごおり)木津荘下郷針江村。
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