昭和二十年の戦い
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「高雄 (重巡洋艦)」の記事における「昭和二十年の戦い」の解説
1945年(昭和20年)1月5日より「高雄」はドライドックで修理をおこなうが、舵取機室の油圧ポンプの修理ができなかった。11日、B-29重爆を主砲と高角砲で迎撃する。主砲37発、高角砲481発を消費し、B-29を1機撃墜した。2月1日の空襲では、「妙高」と「高雄」で対空射撃をおこなった。同時期には人員も次第に転勤し、幹部も相次いで退艦した。 3月になると、本土に戻るために修理が行われたが、舵の修理が出来ず、内地回航は断念されるに至った。シンガポール防衛のため、同港残留が決定される。5月初旬、港務部桟橋のそばに固定繋留されることになった。艦尾を切断し、応急防水措置を施した状態で投錨した。迷彩も実施された。対空戦闘関係者と機関部保安員をのぞく大部分の乗組員は臨時陸戦隊員となり、機銃は付近の陸上陣地に移動された。 同年7月31日、シンガポールのセレター港でイアン・エドワード・フレーザー大尉率いるイギリスの小型潜水艇「XE3」と、同行した潜水隊員ジェームズ・ジョセフ・マグニスによって仕掛けられたリムペットマイン(吸着式時限機雷)が高雄の第三砲塔右舷艦底で爆発した(ストラグル作戦)。幅3m、長さ8mの亀裂が生じ、下部電信室に浸水があったものの、死傷者はなく損害は軽微だった。「高雄」工作科の乗組員が潜水調査したところ、4個のうち1つしか起爆していない爆薬が発見された。「高雄」の乗組員達はイギリス系か共産党系のゲリラの仕業と判断しており、豆潜水艦の工作と知ったのは戦後になってからだった。この後も、主缶と補機類(発電機など)は使用可能であり、自力での投揚錨、通信、電力供給などが可能な状態で8月15日(終戦の日)を迎えた。終戦時の「高雄」乗組員は817名。第十方面艦隊司令部が「高雄」を使用するため157名が残留し、艦長以下660名がマレー西岸バトパハに移動を命じられ、約2年間の強制労働を強いられた。 降伏処理などが進められる間、「高雄」と「妙高」はシンガポールにおける人員宿泊・他艦船の修理・通信などの担任母艦(ホテルシップ)として使用された。「高雄」は第十方面艦隊司令部が使用した。9月12日、降伏調印式がおこなわれる。その後、イギリス海軍に接収されたが、引渡しを受けたイギリス海軍は「高雄」と「妙高」の2隻を自沈処分とした。妙高は1946年(昭和21年)7月8日にマラッカ海峡で処分され、8月10日に除籍された。「高雄」の処分要領は9月25日に伝達された。10月27日にイギリス海軍によってマラッカ海峡に曳航され、艦底に爆薬を設置。10月29日夕刻、キングストン弁を開き機関室への注水を開始。午後6時30分に爆薬に点火したのち、軽巡洋艦「ニューファンドランド」の砲撃によって午後6時38分に「高雄」は艦尾から沈没した。海没地点.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯03度05分05秒 東経100度41分00秒 / 北緯3.08472度 東経100.68333度 / 3.08472; 100.68333 。爆破作業員および「高雄」乗組員は同航した「第17日東丸」に移乗してシンガポールへ戻った。 1947年(昭和22年)5月3日、除籍。「妙高」と「高雄」は妙高型と高雄型のネームシップ同士であり、同一船台で建造され、同一海戦で大破しその2隻が終戦時同じ場所に居合わせ、ほぼ同じ地点で自沈処分されるという奇妙な縁を持つことになった。
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