近世の田上村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 22:57 UTC 版)
江戸時代には薩摩国鹿児島郡鹿児島近在のうちであった。鹿児島近在のうちでは「近名」に属していた。村高は「天保郷帳」では1,252石余、「郡村高辻帳」では1,252石余、「三州御治世要覧」では1,263石余、「旧高旧領取調帳」では1,054石余であった。田上村には庄屋が配置されており、名主が4名、名頭が41名となっていた。 安政4年(1857年)には、島津斉彬によって薩摩藩における最初の機械紡績工場として田上水車館が置かれ、慶応3年(1867年)まで操業された。 明治時代になり、明治3年(1870年)に調査が実施され、その結果田上村の生産力が低かったことから西別府村の小牧が田上村に編入されたが、西別府村は田上村以上に貧村であったことから再び小牧は西別府村に編入され、その代わりに宇宿村の広木が田上村に編入された。また、広木の編入について、谷山郷に属していた宇宿村では薩摩藩において禁制となっていた一向宗の取り締まりが谷山郷士によって厳しく行われており、そのことから鹿児島近在への編入を願い出たという伝承がある。明治時代初期の「鹿児島県地誌」によれば、田上村は士族に比べ平民が多く、平民のうち農民が多くを占めており、農村であった。村域内には戸長役場が設置されていた。1876年(明治9年)には郷校が設置された。この郷校は田上尋常高等小学校、田上国民学校を経て、鹿児島市立田上小学校となる。
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