近世の生見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 06:51 UTC 版)
江戸時代になると奴久見は下村のうちに含まれていたが、天和元年(1681年)12月14日に下村の南部が生見村として分村した。この際に庄屋が任命され、この時の生見村の石高は480石5斗余であると記録されている。正徳5年(1715年)1月4日には生見の西屋敷で火災が発生し13軒が焼失した。 明治3年(1870年)に前之浜と生見は再び合併し下村となり、1878年(明治11年)には再び下村が前之浜村と生見村に分割され薩摩国給黎郡喜入郷(外城)のうちの「生見村」となった。1879年(明治12年)の戸籍簿によれば生見村は260戸であった。
※この「近世の生見」の解説は、「喜入生見町」の解説の一部です。
「近世の生見」を含む「喜入生見町」の記事については、「喜入生見町」の概要を参照ください。
- 近世の生見のページへのリンク