近世の庶民信仰
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近世以降、治安が回復したことや、街道が整備されて宿場町が形成されるなど交通事情も改善したことで、神道信仰が一層庶民の間に広がるようになった。人々は、各地で講と呼ばれる結社を結成し、参加者の講員は毎年わずかなお金を積み立て、その共同出資をもとに籤で選ばれた代表者が神社に参詣し、講員全員分のお札などを受け取って帰る代参講が流行、なかでも伊勢神宮の参詣を目的とした伊勢講をはじめ、富士山本宮浅間大社を目的とする富士講、金毘羅講、稲荷講、秋葉講などが全国に広く分布した。各講は、御師や先達と師檀関係を結び、御師は講員の祈祷や参詣における宿泊の便を図った。 特に伊勢神宮の信仰は江戸時代に爆発的に広がった。伊勢神宮の御師は師檀関係を結んだ全国の檀那のもとに年1-3回程度巡行する廻檀を通じて神宮大麻や伊勢暦の他、伊勢おしろいや伊勢茶などの土産を頒布して教化を進め、人々の参宮の際には自邸に歓待して神楽をあげたり酒や伊勢の珍味、羽布団でもてなして両宮や名所旧跡を案内し、あこがれの伊勢参宮を演出した。これらのことで庶民の伊勢信仰は高まり、数百万人の庶民が一斉に伊勢神宮に参拝するお蔭参りが、江戸時代を通じて数度に及び発生し、神宮大麻の頒布率は全国世帯のうちの9割を超えるに至った。 庶民の神社参詣が活発化するに伴い、その案内書も多く出版されるようになる。斎藤月岑の『江戸名所図会』をはじめ並木五瓶の『江戸神仏願懸重宝記』や岡山鳥の『江戸名所絵花暦』など、全国の寺社をカタログ化して人々に紹介する案内書が多く刊行された。また、お伊勢参りの珍道中を描いた十返舎一九『東海道中膝栗毛』や、このヒットを受けて追随して著された「膝栗毛もの」と呼ばれる滑稽本など、社寺参詣をテーマにした文学も近世には多く出版され、庶民の神道信仰の普及に貢献した。 他方、神社参詣の世俗化と参詣者の増加に伴い、神社周辺や境内地には遊郭、私娼、芝居、物真似など遊興の施設が立ち並び始めた例も少なからずあり、武陽隠士は『世事見聞録』で「寺社の門前は、悪場所と唱ふるものになり…」と述べ、寺社参詣の実態を批判している。 また、神社参詣者の増加のほか、氏子や崇敬者以外の多数の見物人が参加するようになったことで都市の庶民祭礼も活発化した。江戸では、江戸三大祭とも称される日枝神社の山王祭、根津神社の根津祭、神田神社の神田祭が発展し、風流をこらした屋台や山車などを練り出して豪華さを競ったり、朝鮮通信使や大名行列などの仮装行列を出したりしたことで、大勢の見物客が賑わった。江戸以外でも、京都では祇園祭や今宮祭、大阪では天神祭、滋賀では日吉山王祭、埼玉では秩父夜祭、岐阜では高山祭など、多くの都市祭礼が活性化した。この中には、近世以前から伝承のある祭りもあるが、やはり近世に治安を回復したことで新たに再開されたものが多い。 都市の祭礼では、出資者が領主を中心とする場合と町人を中心とする場合とがあり、前者の場合は領主が町人に道普請や神馬の飼育など町役人足を課し、曳き物を出させて祭礼に参加させた。後者の場合、各町内から頭屋を選出し頭屋がその経費を分担したり、頭屋を出した町の経費から分担したりした。領主は、祭礼に対して倹約令などを出したものの、概ねは自由を認めていた。 上述の通り、江戸時代には神道信仰が庶民に広がったことで、庶民向けに対話形式で神道教化を行う講釈師が多数生まれた。朝日神明宮神職の増穂残口はその一人で、冗談を交えた巧妙な語り口で街頭における口談を行い、神典に根拠を求める学問的な神道ではなく、神儒仏三教の故事などを自由に引用して神道を心や実践の問題に帰結させるやり方で、夫婦の和合や男女の平等を中心とする通俗的道徳を説いたり、自らの身分に応分の努めに励むことを神道の本分として説くなど、身分社会に生きる庶民に求められた説教を行なった。 このような神道講釈師の民衆教化活動は、後の時代の民衆神道家の出現に影響を与えた。梅田神明宮の神職であった井上正鐡は禊教を起こし、永世の法である「調息」の術を修め、「三種祓」を唱えて一身の安危を神明に任せよ、との教えを説いて多くの信者を獲得したが、幕府から嫌疑をかけられ三宅島へ配流された。今村宮の神職であった黒住宗忠も、身分の差別なく誰もが天照大神と一体であると説く黒住教を創始し、広い階層に広がった。 この他に、近世の民衆教育で最も大きな学派となった石門心学の創始者である石田梅岩も青年期に神道講釈師の影響を受けており、中世神道の徳目である「正直」という概念を重視し、神儒仏の教えを調和して民衆や商人向けの思想を説いた。 また、江戸時代後期の二宮尊徳も、至誠・勤労・分度・推譲を旨とする報徳思想を、天照大神が豊葦原を開いて瑞穂の国とした以来の「開闢元始の大道」「神道の大道」として民衆に説き広げた。自らの学問を「神儒仏正味一粒丸」として、神道一さじ・儒仏半さじずつと例え、神道を中心に神儒仏三教を調和した。
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