増穂残口とは? わかりやすく解説

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ますほ‐ざんこう【増穂残口】

読み方:ますほざんこう

[1655〜1742]江戸中期神道家国学者豊後(ぶんご)の人。僧から還俗後、京都出て神職となり、著述講釈によって通俗神道広めた。著「神路天引」「艶道通鑑」など。


ますほのこぐち 【増穂残口】

(残口はザンコウとも)江戸前期神道家増穂最中・十寸穂耶馬台とも。豊後出身京都通俗的な神道講談行い男女愛情を主にした神道家族道徳説き儒教的家族道徳排した。著『艶道通鑑』他。(一六五五~一七四二)

増穂残口

読み方ますほ ざんこう

江戸中期国学者戯作者豊後の人。別号は似切斎・通称最中(最仲)。京坂で通俗神道運動行い儒教・仏教排撃した。一面遊里研究家でもあり、著書の『艶道通鑑』は有名。寛保2年(1742)歿、88才。

増穂残口

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/29 15:35 UTC 版)

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増穂 残口(ますほ ざんこう/のこぐち、1655年明暦元年)‐ 1742年10月24日寛保2年9月26日))は、江戸時代中期に活躍した神道家国学者戯作者である。通称は、増穂最中等。号は似切斎、太仲。本姓は竹中氏といわれている。

経歴・人物

豊後の松岡(現在の大分市)に生まれ近衛氏に仕えたが、後に浄土宗日蓮宗の僧となった。

その後上京し、江戸で谷中感応寺の住職となったが、江戸幕府が制定した不受布施派の禁令により、1715年正徳5年)に還俗した。還俗後は上洛し、卜部家の神道家に転向し朝日神社の神職となった。神道家に転向後は、男女の愛情平等や、儒教仏教を排して神道の思想復興等を主張した著作物を多く出版した。

残口が出版した著作物は後に「残口流」と呼ばれ、戯作に関する著作物に強い影響を受けた。

主な著作物

  • 『艶道通鑑』
  • 『異理和理合鏡』

等他6部書と合わせて「残口八部書」と呼ばれている。

出典




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