近世の平良
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 23:01 UTC 版)
平良という地名は江戸時代より見え、薩摩国甑島郡甑島郷(外城)のうちであった。平良村の村高は「三州御治世要覧」では55石余、「旧高旧領取調帳」では62石余であった。 江戸時代の測量家である伊能忠敬が著した「九州東海辺沿海村順」によれば平良村の家数は172であったと記録されている。「元禄国絵図」によれば上甑島との間は干潮時には「くしの渡り」と呼ばれ徒歩による移動が可能であり、満潮時には潮に浸かるため、船で移動したと書かれている。 寛政11年(1799年)に東海岸にある湖沼を掘削し平良港が建設され、後に密貿易の中継地として栄えた。また台風の避難港ともなった。 江戸時代後期に薩摩藩が編纂した地誌である『三国名勝図会』では平良港について以下のように記述している。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}平良港 上甑村の南面、平にあり、往古は此村を矢島と稱せしと可、人家漁釣を以て業とす、此所港なき故、風濤の時、土人患へとせしに、本府士長崎八右衛門隆近、當島に祗役す、此海邊に大池ある故に、其池を以て港を開かんとし、是を官に啓して報可を得、寛政十一年春三月、嵓を碎き、地を鑿て港を作る、三年にして、その功竣る、港口横十歩、深さ一丈三尺、港周廻十町四十歩、港内の深さ五丈餘、舟船の出入自在にして、風濤の患を免る、隆近が功勞永世に及ぶ、此港人煙頗る繁庶なり —三国名勝図会第三〇巻
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