近世の嶽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 01:54 UTC 版)
嶽という地名は江戸時代より見え、薩摩国日置郡伊集院郷(外城)のうちであった。万治2年(1659年)に島津光久が北郷氏の北郷久精に領地させ、明治時代まで北郷氏の領地であった。村高は「天保郷帳」では545石余、「三州御治世要覧」では476石余、「旧高旧領取調帳」では496石余であった。嶽村の石高は江戸時代初期から江戸時代中期にかけては減少傾向にあったが、江戸時代中期から江戸時代後期にかけて微増となっていた。薩摩藩の門割制度における門として「伊集院由緒記」によれば20の門が存在していた。村域内には鹿倉という島津氏の所有する山林があり、伊集院郷の郷士が「行司」として監督を行っていた。天保10年(1839年)には御救門割と呼ばれる検地が実施された。また、薩摩藩は嶽村において銅の試掘を実施したが、試掘資金の調達が困難となり、銅脈を発見することが出来ないまま試掘は中止された。 また、嶽村の上宮嶽について薩摩藩の地誌である「三国名勝図会」には以下のように掲載されている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}上宮嶽 嶽村にあり、當郷第一の高山なり、上宮嶽と號するは、往古嶽上に熊野権現宮あり、因て名を得たり、今嶽を距ること辰の方十町許、神の園といひ、人家聚落の所、熊野鎮座す、是嶽より遷祀の宮といひ傳ふ、 —三国名勝図会巻之八 明治時代初期の「鹿児島県地誌」には、嶽村は人口543名であり、村の中央に小学校が所在していたと記載されている。小学校はその後嶽簡易科小学校を経て、1892年(明治25年)に下伊集院村立嶽尋常小学校、1913年(大正2年)には下伊集院村立大谷尋常小学校に改称した。また、江戸時代から嶽村は武士の比率が高く、明治時代にも多くの武士が居住していた。
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