近世の寄田
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 21:12 UTC 版)
江戸時代には薩摩国薩摩郡高江郷(外城)のうちであった。村高は「天保郷帳」では152石余、「郡村高辻帳」では152石余、「三州御治世要覧」では186石余、「旧高旧領取調帳」では240石余であった。 東部にあった笠山野牧では多くの馬が放牧されていた(※寄田野牧にも「笠山野」があるが、後述するように笠山野牧は東郷町斧渕付近の「笠山」をさしているのではないかと考えられ、出典の混同かと推察される)。 安永7年(1778年)には村内を流れる轟川に石造りの井堰が建設され、流域の棚田を灌漑した。江戸時代の測量家である伊能忠敬が著した「九州東海辺沿海村順」には「寄田(ヨシタ)村 家数59軒、内13軒上川」と記されている。 1886年(明治19年)には甑島列島からの入植者が多数入植し、上野や池ノ段といった集落が形成された。
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