近世の宮之浦村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 09:49 UTC 版)
江戸時代には薩摩国鹿児島郡吉田郷(外城)のうちであった。村高は「天保郷帳」では1,075石余、「郡村高辻帳」では1,075石余、「吉田神社仏閣旧跡改帳並方覚帳」では780石余、「三州御治世要覧」では810石余、「旧高旧領取調帳」では712石余であったと記されている。 寛政6年(1794年)の人口は「吉田神社仏閣旧跡改帳並方覚帳」によれば349人であった。元禄国絵図によれば谷之村は宮之浦村のうちであったと記載されている。鹿児島から日向国に向かう薩摩街道の日向筋が通っており、白銀坂が薩摩国と大隅国の境界となっていた。また、薩摩藩で禁制とされていた浄土真宗の信仰が行われていたとされ(隠れ念仏)、宮之浦では吉水・宮西に洞窟があり、洞窟で集会が行われていたとされる。
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