近世の常滑焼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 09:11 UTC 版)
江戸時代、常滑村・瀬木村・北条村の三か村で焼かれる焼き物を常滑焼と総称した。なかでも北条村に最も窯が多く、元禄七年の窯改めで常滑・瀬木が2基ずつであるのに対し、北条は8基である。その後、北条は享保年間に10基、天明年間に8基、そして、江戸末期の天保年間に11基である。常滑村と瀬木村については、その後の記録がないが江戸末期に1から2基の増加があった程度と推測される程度である。 近世常滑焼では高温で焼き締めた真焼(まやけ)物と素焼き状の赤物(あかもの)と呼ばれる製品群がある。真焼物は甕・壺を中心とするが、江戸後期になると茶器や酒器などの小細工物と呼ばれる陶芸品も登場する。一方、赤物は素焼きの甕や壺のほか蛸壺や火消壺、竈、火鉢などが中心となるが、江戸末期には土樋(どひ)とよばれる土管が赤物として登場してくる。土管で下水道を作ろううとしている 尾張藩侯の七・八代のころに北条村の渡辺弥平は、その命を受けて茶器・酒缶・花瓶などを作って上納したところ、いずれも賞玩され、それらが無名であることから元功斎の名を賜り、以後、作品に元功斎と記入することになったとされる。その後、常滑でも伊奈長三郎、上村白鴎、赤井陶然などの名工が出て茶器や酒器などに技を振るった。また、文政年間に稲葉高道(庄左衛門)は遠州秋葉山に参り、そこで伝来の「足利家同朋巽阿弥秘蔵 茶器三百五拾一品之内 茶瓶四拾三品」とある古写本を譲り受けて帰り、常滑で初めて急須を作ったとされる。また、杉江寿門堂(安平)は、安政元年に常滑の医者で急須の収集家でもあった平野忠司の指導を受けつつ、中国の茶壺の素材に近い朱泥を創出することに成功した。 常滑に連房式登窯が導入されるのは天保年間のこととされる。同じ天保年間に二代伊奈長三は板山土と呼ばれる白泥焼の原料を見出し、この土に乾燥させたジュズモ(海藻)を巻いて焼くことで生まれる火色焼(藻掛け技法)を生み出した。連房式登窯は真焼窯とも呼ばれ窯詰めされたものが、すべて真焼けになるのに対し、従来の大窯では燃焼室寄りに置かれたものは真焼けになるが、奥の煙道よりのものは温度が上がらず赤物になっていた。江戸末期に登り窯が導入された背景には、常滑においても各種の小細工物が量産される状況に至ったことをうかがわせる。この登り窯導入を行ったのは瀬木村の鯉江小三郎(方救)で、その息子の伊三郎(方寿)も協力したといわれる。しかし、年齢を考えると天保年間に方寿が大きく貢献したとはみなしがたい。また、鯉江家は尾張藩の御用を勤めていたとされるが天保11年には尾張藩の御小納戸御用、御焼物師の役を伊三郎(方寿)が勤めている。そして、その「御焼物師 鯉江伊三郎」と銘を入れた壺が煙硝壺として伝存している。同形のもので、梅干壺とされるものもあり、その仕様を書いた安政七年の御掃除方役所が出した古文書もあるが、梅干壺は鯉江の窯で焼いた形跡がない。そして、梅干窯を焼いた窯として松本久右衛門の松本窯が知られている。この窯は流通業で富を得た松本家が陶器生産に参入した結果生まれたものながら、その操業にあたって従来の窯業者との間に大きな摩擦が発生したという記録がある。 2020年(令和2年)、発掘調査によって、奈良県大和郡山市の郡山城の外堀に「暗渠」と呼ばれる排水設備が設置されている事実が発見された。この排水設備は江戸時代(17世紀前半頃)に作られたと推定されており、土管の材料として常滑焼が使用されている可能性が高いと指摘されている。なお、耐久性を向上させるため、短い土管を多数連結した構造となっている。連結部分には漏水防止のため、漆喰が塗られている。約170年間使用され続けてきたことが判明しており、現在の水道管と比較しても耐久性に優れていると評価されている。
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