近世の坂元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 05:12 UTC 版)
「坂元町 (鹿児島市)」の記事における「近世の坂元」の解説
江戸時代には薩摩国鹿児島郡鹿児島近在のうちであり、坂本村とも坂元村とも書かれていた。「歴代制度巻二十」によれば坂元村は鹿児島近在のうちでも近名とされていた。村高(石高)は「天保郷帳」では2,534石余、「旧高旧領取調帳」では948石余、「郡村高辻帳」では2534石余、「三州御治世要覧」では632石余であった。 安永2年に島津重豪が地内に藩校造士館と武芸稽古場を設置した。明治3年に下田村を編入し(その後1881年に再び下田村として分立)、明治初期に坂元村の一部が稲荷馬場町(現在の稲荷町)、春日小路町(現在の春日町)、清水馬場町(現在の清水町)に分割されそれぞれ新たに設置された。
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