近世の口米
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 08:27 UTC 版)
豊臣政権によって口米の位置づけが大きく変わることになる。すなわち、これまで交分・筵付・員米・斗上など様々な名目で徴収されていた年貢に対する付加税を全て廃止して、豊臣政権(公儀)が定めた「1石あたり2升」の口米に一本化されたのである。この措置は太閤検地の進展に伴って天正14年(1586年)と慶長3年(1598年)の2度にわたって出されている。これは従来荘園領主や大名権力が賦課してきた様々な名目の付加税を一掃することで公儀による徴税権の確立と収入の確保・増加を意図していた。また、荘園領主や荘官によって様々な名目で付加税を賦課されてきたことに反発する農民にとっても賦課基準の明確化は望ましい事であった。同時に付加税によって賄われてきた徴税時における徴税側と農民との間の酒肴の共食慣習の途絶など、徴税の現場から宗教的・儀礼的要素を排除することにもなった。 この政策は江戸幕府においても原則継承された。元和2年(1616年)に口米・口永(口銭)に関する規定を定めた。これによって関東地方では原則、年貢米1俵(名目本石3斗5升/計立込の実質3斗7升:1石あたり2升8合5勺)あたり1升の口米を取ることとされた。ただし、関西地方では1石あたり3升とされるなど、ほぼ年貢米の3%前後の水準と定められていたとは言え、その基準は地域によってまちまちであった。口米・口永は代官所の経費に充てられ、下役人の給料や紙・筆・墨の代金などに用いられた。これは年貢収入が増加すれば、口米・口永収入も増加するため、役人たちに職務励行の効果をもたらした。だが、その一方で年貢の苛斂誅求を招いたり、また口米・口永収入が乏しく増収も望めない代官所では本年貢の代官所経費への流用や贈収賄の一因になったり、地域によって徴収基準が違うこと(地域ごとの徴収率の違いに加え、同じ条件の田畑における口米の負担は口永による負担よりも過重であった)で代官所ごとに収入の格差が生じるなど、様々な問題点も浮上した。このため、享保10年(1725年)に勘定奉行神尾春央の提案によって代官所の経費を全て幕府が負担し、徴収された口米・口永は幕府に全額納付された(ただし、諸藩が実質経営を行う預地や生野銅山の口銅・足尾銅山の持籠代・甘楽郡の口砥(砥石)・八丈島の口紬(紬)は従来通りとされた)。この改革は幕府による代官統制と年貢徴収体制の強化を目指したものであった。諸藩においても江戸幕府と同様に口米の制度が導入されていた。
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