近世の二俣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 10:10 UTC 版)
江戸時代には大隅国大隅郡桜島郷(外城)のうちであった。村高は「旧高旧領取調帳」では40石余、「三州御治世要覧」では34石余であった。 寛文4年(1664年)の「郡村高辻帳」には二俣村の名称が見えず、文政7年(1824年)に伊能忠敬による桜島の測量が行われた。この際の記録では二俣は松浦のうちと記されており、薩摩藩の地誌である「三国名勝図会」にも二俣村は松浦村(現在の桜島松浦町)の支村であったと記されている。安永8年(1779年)10月1日に発生した桜島の安永大噴火では火石が村内に落下するなどの被害を受けた。二俣の人々は鹿児島に避難したとされる。 1887年(明治20年)4月2日には「 鹿兒島縣下分郡ノ件」(明治20年勅令第7号)により大隅郡が南北に分割され、二俣村は北大隅郡の所属となった。
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