近世の中村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 06:01 UTC 版)
江戸時代の中村は薩摩国鹿児島郡鹿児島近在のうちであった。村高は「天保郷帳」では1,067石余、「郡村高辻帳」によれば1067石余、「三州御治世要覧」では1028石余、「旧高旧領取調帳」では1,004石余であった。「歴代制度巻二〇」によれば郡元村は鹿児島近在のうちの「近名」に含まれていた。村内に谷山街道と谷山別街道が通っていた。 弘化2年頃まで現在の騎射場と呼ばれる区域一帯は砂地であり、騎射の練習場となっていたことから騎射場という地名が起こったとされる。島津斉彬の時代には、中村において綿花の栽培が推奨され、中村紡績所で木綿が造られていた。中村の騎射場に設けられた製薬館で使用するガラスを製造するために江戸のガラス工である四本亀次郎が招かれ、ガラスの製造が行われた。このガラス製造技術はのちに磯の集成館において生産されることとなる薩摩切子に利用された。 明治時代の初期には平民が士族に比べ多く居住している村であった。農業を営む者は228戸であり、士族は285戸、平民は378戸であった。
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